ベルンシュタイン Plus

『脳を知る・創る・守る・育む』  その9

ここでは複雑系とコンピュータの話です。SFなどで脳をコピーして、という話が出てきますが、どうも無理なようです。人の脳のつくり出す知能に、人間が造り出したコンピュータの能力が含まれるのは面白いと思います。

中島 秀之

人工知能はどこまで脳に迫れるか

 人工知能を研究している関係で、まず、知能をどのようにとらえているかについて簡単に説明します。次に、最近話題になっている複雑系と知能の関係について述べ、後半で人間と計算機を比較してみます。内容は、コンピュータで知能をつくるというソフトウエアが中心になりますが、最初に少しだけハードウエアについて比較することにします。

人工知能とは

 基本的にコンピュータと脳は違います(表1)。もっとも大きな違いは、複雑さです。コンピュータ一台と脳一個を比べることはできません。コンピュータ一台と神経細胞一個を比べても、神経細胞のほうが複雑かもしれません。人間の脳を現在の計算機で実現しようと、世界中の計算機をすべてもってきて、それをつないだ地球規模のネットワークを構築しても、人間一人分の知能をのせることができるかどうかというほどです。その意味で、世界中の計算機をすべてかき集め、すべての研究者がかかりっきりになって何らかのプロジェクトを組織すれば脳に少しは迫れるかもしれませんが、計算機一〇台や二〇台をつないだネットワーク程度では、とても脳には太刀打ちできません。

1

コンピュータ                           

 デジタル                            アナログ?

 高速                                 低速

 (ソフトで対応?)                   可塑性

 大きい                              小さい(分子レベル)

 ネットワーク                            豊富なI/O

 外部記憶                           

 コピー可能                            個別の情報表現?

 そのような世界で、人工知能として何を研究するのかが問題になります。この人工知能について、よくいわれる定義が二つあります。一つは、知能とは何かということを研究する分野であるというものです。もう一つは、コンピュータに知的処理を行わせる分野であるというものです。しいていうなら、前者は科学的興味、後者は工学的興味に近いわけですが、知能や知的振舞いをつくることにおいて、両者は車の両輪のような関係です。例えば、知能の仕組みを解明するような立場をとるときにも、計算機があって初めて生まれてくる分野が、人工知能です。

知能とは

 知能という用語も、未定義です。極端な話、知能とはこれこれこういう機能であると定義できるようになると、ある程度、知能が解明できたことになります。その意味で、未定義用語のまま使っていますが、かといって、人によっていろいろな思いいれがあるため、ここで少し分類しておくと表2のようになります。

2 知能の分類                    

アメーバの知能

 外界に反応し、自己を保存する能力

昆虫の知能

 アメーバの知能+環境を自己に有利に変更する能力

イヌの知能

 昆虫の知能+学習能力

コンピュータの知能

 抽象的記号操作を行う能力

人間の知能

 以上のすべて+a

 アメーバは外界に反応して、自己を保持する能力をもっています。食べ物のあるほうに移動したり、自分で食べ物を食べる能力をもっており、種の保存、自己の保存を行います。これが私どもの考える最低限の知能です。

 そして、昆虫は基本的に巣をつくったりするため、環境に働きかけて自己に有利なように変更する能力をもっています。その分アメーバより高い知能をもっています。さらにイヌになると、昆虫の知能の上に学習能力が備わるようになります。このあたりから脳の機能になると思いますが、例えば、昆虫が巣をつくる能力は、おそらく遺伝子にプログラムされており、それをプレイバックしているだけと考えられますが、サルやチンパンジーといった類人猿になると、仲間が新しい発見をすると、それをみて学習し、自分の生きているうちに行動を変化させるような能力を備えています。

 それに対して、コンピュータは、これまで述べたようなことを抽象的な記号として操作する能力をもっています。チンパンジーが簡単な言葉を学んだり、数を扱える能力が少しあることは示されていますが、われわれが話す日本語や英語、数学記号、数式などの複雑な記号処理の能力はもちあわせていません。しかし、コンピュータは記号処理だけをとりだせば人間と同等、数式処理においては人間より優れています。

 最後に、人間の知能は、それらの総合というか、すべてをもちあわせ、さらにプラスアルファがあるかもしれません。人工知能とは、人間を目標にしつつ、コンピュータの上で主に記号処理を行うことである、と定義することができます。

複雑系としての知能

 最近、複雑系というキーワードをあちらこちらで問きます。計算機を扱っている身としては感慨深い言葉です。複雑系がいいだされたのは、もともとは物理学の世界です。物理学は、人工知能とは逆に、分析的な方法論をもつ典型的な学問で、世の中の複雑な現象を単純化していきます。例えば、万有引力の法則であれば、ほかの要素をすべてとりさり、重力パラメータだけを考えるという単純な世界です。どのような単純な法則が成り立っているのかを分析していくのが、これまでの物理学あるいは自然科学の典型的な方法論です。複雑系はそのような方法論で扱えないような世界があるということの発見です。

 これまでの分析的な方法によれば、天気予報にしても、台風の進路予測にしても、どんどん精度をよくしていけば、最終的には完全に予測できるということを前提にしています。しかし、最近のカオスの研究などで明らかになっていることは、いくら精密に分析しても、近似であるかぎり、その誤差が無限に大きくなる世界があるということです。台風の進路予測にしても、一秒後や一時間後では、それほど違わないかもしれませんが、数日後の予測を完全にすることは原理的にできないという見方です。これまでの分析的な方法論では理解できない世界があるかもしれないということで、複雑系が注目されています。

 そして、複雑なシステム(脳)をつくって、それがどうなるかを調べようではないかという構成論的な立場が、人工知能です。対象としている脳、知能が複雑で、その知能が扱う対象(世界)も複雑です。また、そのような対象と知能との相互作用で生じる行動も複雑です。それぞれある意味で独立した概念ですが、システムはすごく複雑でも行動が非常に単純な場合もあります。ロジスティック関数という単純な数式の値を追求していくと、それがカオスとなります。時計の振り子のような単純な運動でも、その振り子を二つつなげたものを振るとカオスになります。このように、単純なシステムが複雑な行動をとることもあるわけです。ここで私どもの興味は、複雑なシステムを、どうやってつくっていくかという点と、そのようなシステムが複雑な世の中を、いかにして処理していくのかという二点にあります。

人工知能からみた複雑系の定義

 その意味で、私どもからみた複雑系は図1のようになります。

スケールに厚いシステム

 (システムが複雑)

層間相互作用→設計不能

多重犯発

1 スケールに厚いシステムとしての複雑系

 縦幅はスケールで、横幅はその対象物にどれくらい意味を読みとるかを表しています。その意味は、対象物に内在した性質ではありません。われわれ人間がそれをみたとき、どれくらい有用だと思うかということです。

 このことを説明する前に、例を紹介します。複雑なものとして自然界に存在する木を、単純なものとしてゼムクリップ(紙どめ)を考えてみます(図2)。木とゼムクリップとの大きな違いは、スケールにおける意味です。例えば、木の構造を理解したり、人工的な木をつくろうとしたとき、どれくらいのことを知らなければならないかということです。木は生物であるため、DNAや分子をもち、一番下に分子の構造があり、その上に蛋白質の構造があって、蛋白質が細胞をつくり、細胞がまとまって葉や幹になります。分子レベルはオングストロームのスケールであり、細胞はミリメートル、木の枝ぶりの構造や葉の形状はセンチメートルからメートルというレベルです。それぞれのスケールで別々の意味をもっています。どこかで達うものにすると、それは木ではなくなってしまいます。ヒトも同じです。蛋白質レベルから細胞レベル、筋肉の組織、骨格、体全体と、いろいろなところで記述して理解しなければならないシステムです。

 それに対して、ゼムクリップのような人工物は、一ヵ所かニカ所ほど理解すればことは足ります。形状と、どこに紙が挟まるかといった以外に、摩擦がどれくらいかといった二ヵ所ほどの記述でわかるため、単純なシステムということができます。すなわち、さまざまなスケールで異なった意味があるのが複雑なシステムです。しかも、スケールの各層は下の層に還元することができません。これがまた最近の新しい見方です。昔の物理学的な意昧での還元主義では、分子や原子の構造さえわかれば世の中のすべてのことがわかるのに対して、生物学などでは原子の構造を理解し、細胞の構造も理解する必要があるということがいわれてきました。そのため、いろいろなレベルを記述する必要があり、理解しなければなりません。しかも、その層間に何らかの相互作用があります。これは物理的にみるとたいへん不思議です。構成要素と全体の間に相互作用があるというのはどういうことなのかを、じっくり考える必要があります。

服属アーキテクチャ

 ところで、振舞いなどはシミュレーションしないとわかりません。構造を使って、それを分析しても、どのようなものであるかを知ることができません。プログラムをつぐって、それを動かしてみなければわかりません。ただ、複雑だといっているだけではお手上げです。私どもは何かをつくっていかなければなりません。それをどうやってつくるかが問題です。

 これに関して、ロボツトの世界で有名になっている方式があります(図3)。従来の方式では、情報は入口から出口に流れ、途中で何層も直列にAをやってBをやって、Cをやってという手順で処理していました それに対して、いろいろな層で同時平行的に処理して、それらの層間の相互作用で最終的な出力をきめるのが最近の服属方式です。脳は複雑すぎてとても手が及びませんが、この服属方式を使って生物のように有機的なプログラミングシステムを考えています。図4に示すような層を多数つくり、層間の相互作用で全体のプログラムを構築することを「協調アーキテクチヤ」というプロジェクトで検討してきました。基本的には、計算機のプロセスが多数あって、その下にプログラムが階層を形成しており、各層に対応するプログラムがあり、外界からの情報が並列的に処理されるようなシステムを考えています。このシステムの一つの特徴は、部品を集めてきて一個のプログラムになって動作しているとき、自分の部品を取り替えることができるということです(図5)。私どもはコンテクストリフレクション(文脈反映計算)と呼んでいますが、プログラムのコンテクスト(文脈)を自分で取り替えることによってプログラムの意味をかえたり、動作がかわる自己反映的な計算を行うシステムになっています。これが生物などがもっている柔軟性の根本だと思います。

 生物のプログラムは遺伝子に書かれており、われわれの細胞はすべて同じ遺伝子をもっています。それが、ある部分は皮膚になり、ある部分は筋肉になるような機能分化を起こします。それに対して、私どもが考えたシステムでは、コンテクストと環境との相互作用で働きがかわるようにすることを、プログラムの世界で実現するようにしています。それにより、最初のプロセスに単純なプログラムだけを与えて動かすと、何か別のプログラムを連れてくるようになります。部品をとってくるようにしてどんどん成長します。あるいは、別のプロセスをつくって複雑な枝分かれをするようになります(図6)。ある意味で植物が育っていくような過程で、実際に育っていくようなプログラミングシステムを構築しています。

 ただし、この程度の複雑度だと、とても脳には及びません。もっと複雑なものをつくっていく必要があります。それはこれからの問題です。

人工知能における時間表現

 ここで人間に顔を向けてみます。人間はよくできています。普通に動いているときは何か起こっているのかよくわかりませんが、壊れたりするといろいろな側面をみることができます。例え

ば、第二次世界大戦で負傷者が多数でたとき、脳生理が発達したようなものです。システムが壊れたとき、その仕組みの意味がよくわかります。知能の高い人しかかからないといわれる離人症

という疾患がありますが、精神病理の木村敏先生が報告された、ある離人症患者さんの言葉を紹介します。

 「時間も同じことなんです。時計をみれば時間がすぎてゆくことはわかるし、今何時何分だということもわかるんだけれど、時間の流れというものが感じられないんです。てんでばらばらでつながりのない無数の今が、今、今、今、今、と無茶苦茶にでてくるだけで、何の規則もまとまりもないんです……」(木村敏著『心の病理を考える』岩波新書、1994)

 知識的にはわかるが、感覚がともなわないということです。このことを簡単に体験するには、漢字や文字を一分ほどみているだけですみます。例えば、「時」という字を一分ほどながめていると、明らかに「時」という字だとは理解できますが、どうしても「時」にみえないような状態になります。

 このことを人工知能の研究者がみると、現在の人工知能における時間表現は離人症そのものです。時間の断片というか時刻にあたる表現をいっぱいつくって、それを貫いて推論しているため、何時何分に何か起こり、今どうなっているかを推論すれば結論はわかります。しかし、それだと時間が流れていません。何か四次元時空の断片をもっていて、それを扱っているようなものです。そうではなく、もっと時間を感じる、というのは変ですが、われわれが普通に扱っているようなものに近づけることが必要です。時間だけにかぎりません。知能がもっと密接な関連をもったかたちにすることを考えたいわけです。

新たな人工知能

 木村さんは離人症の例から世界のとらえ方を「こと」と「もの」に分類されています。「こと」が総合的で、特に東洋的なものの理解のしかたであり、自分が含まれています。それに対して「もの」は、自分と対象を切り離した分析的な働きです。デカルトや物理学がそうだったように、研究者と対象を切り離して、対象だけを客観的に観察する方法です。従来の人工知能も典型的には、システムと切り誰したかたちで世の中を客観的に記述して、それを使って推論しています。われわれはそのようなことをやめて、プログラムと世の中を段階的に切れ目なくつないで、どこまでがシステムで、どこから先が環境かをあまり考えないような表現をとるようにしています。プログラムを自分で取り替えながら環境にどんどん対応した推論あるいは計算をしていくようなシステムにすれば人間に近づくと考えています。

 人間や生物のようなシステムを研究する学問として、最初、有機体とかホメオスタシスのような話がでてきました。それから、プリゴジンの散逸構造がでて、最近はオートポイエシスが登場しています。オートポイエシスとは、自分で自分をつくりながら変化していくシステムのことです。プログラムもそのようにしたいわけです。あるプログラミングシステムが次の自分のかたちをきめ、それによって処理していくようなものを目指しています。

 ここで大脳と関係づけます(図7)。こじつけ的かもしれませんが、例えば目からはいってきた刺激は視床に伝達され、そこから視覚野に伝えられて処理されます。もう一つ、視床から扁桃体に投射する経路も知られています。視覚野への経路では普通の視覚的な処理を行い、扁桃体への経路では価値の処理というか、刺激が自分にとって心地よいものか避けるべきものなのかといったことを処理しています。

 従来のエキスパートシステムやプロダクションシステムなどは、いろいろなIF/THENルールではいってきた情報を多数のifを並べて分析し、その結果、何をすべきかというように処理しています(図8)。それは普通の視覚野経由の処理と同じであるため、別の経路で、少し粗くても、もう少し早い反応をすることを考えています。具体的には、私どもは、図9のように四角い箱をいくつか用意して、そのうちの一個だけを使うようなプログラムを書いておきます。そのようにして、何らかの人力がきたらすぐアクションを起こして、次にどうなるのかをゆっくり考えた結果、そのままでよいかもしれないし、状態がかわるのであればそのプログラムを取り除いて、違ったプログラムをもってくるようにします。前述の自己反映とかオートポイエシスのようなシステムの一つです。

おわりに

 ここでお話したシステムを使って、たわいもないことをやっています。脳とはかなり遠いものですが、サッカーをやらせようとしています(図10)。 人工知能の典型的な例題は、これまでチェスでした。時間がたっぷりあり、情報はすべてわかっていて、そのうえでじっくり考えれば勝てるようなことを対象にしていました。しかし、サッカーの場合、球がどんどん動くため、考えている暇がありません。ほかの人がどこにいるのかもわからなくなります。部分情報を時間がないところで早く処理して反応する必要があります。そこで、先はどのようなアーキテクチャを使って、どれぐらい対処できるかを調べているところです。そこで重要なことは、脳やコンピュータというシステムを環境から切り離さないで、つながったままで考えていこうという見方です。素早い(粗い)処理と丁寧な(遅い)処理が必要です。サッカーのような場面では、今自分かどちらの処理をすべきかまでを含めて考える必要があります。それから、構成的なものを科学というかどうかよくわかりませんが、そういうことをやっていかないと脳のような複雑なものには迫れないと考えています。

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『脳を知る・創る・守る・育む』  その8

ここでは、コンピュータと脳が具体的にどんな風に違っているのか、という話です。

特に処理の仕方についての違いが、大変分かりやすく述べられています。

大見 忠弘

シリコンチップに脳機能を蓄積する四端子デバイスが切り拓く連想知能エレクトニクスの世界

     

はじめに

 脳研究の一環として、現在のコンピュータがもっている欠点を克服する道を探る研究を進めています。従来のノイマン型コンピュータは、ありうべき答えをすべて同じ重みで計算して比較し、答えをたすというきわめて厳密かつ冗長な方式を採用しています。計算の素過程がいくら速くても、対象となる場合の数が多すぎるため答えをだすのに天文学的時間がかかります。そのような方式では、人間が人間の言葉で話しかけたときにただちに答えてくれるようなコンピュータを実現することは不可能です。そのことを、どう克服するかが問題です。かつて、日本では第五世代コンピュータの開発プロジェクトが組織され研究が進められましたが、残念ながら大きな成果は得られませんでした。私どもの解釈では、現状のハードウエアを前提にしてソフトウエアだけで課題を克服しようという攻め方に無理があったのではないかと考えています。私どもが目標とする機能を実現するためには、システム、アルゴリズム、アーキテクチャの高機能化だけではなく、システム性能を高めるために、回路やデバイス、場合によってはプロセス・材料までも新しい概念、新しい方法をとる必要があるのではないかと考えて、「四端子デバイスが切り拓く連想知能エレクトロニクスの世界」という副題をつけました。

21世紀に要求される技術

 コンピュータを便っておられる方に「コンピュータは人間を仕事から解放しましたか」と問うと、どのように答えられるでしょうか。便利になった反面、システムが複雑になり、人間によけいな手間をかけているのではないでしょうか。簡単にいうと、おもしろい部分はすべてコンピュータがやり、コンピュータがうけつけるデータやプログラムに直すという、つまらない部分だけを人間が手間をかけてやらされるという状況になっています。二〇世紀最大の発明はコンピュータであることは間違いありませんが、二〇世紀のコンピュータは機能が向上するほど、人間が訓練しなければならないことが多くなるという、人間が機械に接近していくという思想でできています。二一世紀に要求されるコンピュータは、機械が人間に接近するシステムです。人間と対話ができるしなやかな電子システムを構築することが目標です。また、話しかけてから何万年かのちに応答が得られたのでは対話にならないため、どうしても瞬時応答性が要求されます。

 このことを、カエルが飛んできた昆虫を餌だと認識して自分の舌で捕まえる例で考えてみます(図1)。このようなことを現在のスーパーコンピュータにやらせようとしても無理です。現在のコンピュータは瞬時応答機能をもっていません。ピッチャーが投げた球を打てるようなコンピュータすら無理なのですから、飛んできた昆虫を捕まえるなどは到底無理な話です。ましてや、人間が話しかけてすぐ答えることはまったくもってできません。

生体の応答とコンピュータの応答

 現在のコンピュータの基本となるハードウエアと生命体の機能を比べてみます。生命体の神経細胞の応答速度は、10分の1から100分の1秒ほどであるのに対し、コンピュータのクロック速度は10億分の1秒ほどで、1000万倍ほどコンピュータの処理速度のほうが速くなっています。また、神経繊維を伝搬する神経パルスでは情報の伝搬速度は1秒間に100メートル程度であるため、カエルやトカゲなどの小さな生物では、瞬時に餌を捕らえるといった芸当が可能ですが、ゾウやキリンなど大きな動物に昆虫を捕まえさせようとしても無理です。なぜなら、神経パルスの伝搬速度が遅くて、神経系からの運動器官のコントロールが間にあわないためです。それに対して、コンピュータは情報伝搬するのに一秒間に地球を七周半する電磁波を使っています。このように、信号の伝搬速度でもコンピュータのほうが生命体より100万倍速くて優れているはずです。ハードウエアの性能においてはコンピュータワールドのほうが動作速度に関しては圧倒的に有利です。しかし、コンピュータは人間や各種生命体が有している瞬時応答機能をまったくもっていません。それはなぜなのでしょうか。

 何かを見つけ、行動を起こして捕まえるような処理をしようとすると、現在のコンピュータだと1000億ステップから一兆ステッフほどの処理が必要になります(図2)。人間は平均、五段階の処理で答えをだしています。そのため、一ステップの処理にたとえ0.1秒かかっても、五段階の処理で答えがだせるため0.5秒で応答することになります。しかし、コンピュータだと一段一段の処理は人間より1000万倍も速いものの処理段数が多いため、結果として応答時間は300から1000秒ほどになります。餌になる昆虫は、とっくに通りすぎてしまいます。将来、私どもが現状のLSI技術を徹底的に高めて到達できる処理速度は、現在の30倍程度が物理的な眼界ですが、そのような超高速の処理速度を実現しても、答えをだす処理に1兆ステップも要求されると100秒もかかることになり、人間が話しかけて待っていられる時間ではありません。

 では、どのようにすればよいのでしょうか。

求められるコンピュータの性能

 処理に要する段数をいかに減らすかが焦点となります。人間のようにすべての処理を五段で行うことを要求されているわけではありませんが、100万回とか1000万回ほどの処理段数で応答できるのであれば、ハードウエアのもっている高速性で十分に瞬時応答機能が実現できます。

 私どもが住んでいる実世界は、精度が低くて曖昧な情報で満ちあふれています。しかも、膨大なアナログデータの世界です(図3)。このような情報を、通常のコンピュータのようにアナログ・デジタル変換器ですべてO、1の信号にかえて情報処理をするのでは、情報量が多すぎて高速処理はできません。だいたい答えはこのようになるというような大枠の判断で答えのあるあたりを推測し処理量を圧倒的に絞りこんで、残りを巌密に処理することが必要です。また、直感による類推や柔軟な解釈なども不可欠です。これまでのノイマン型コンピュータは、ありうる答えをすべて同じ重みで演算処理したのち、比較して答えをだしていました。その方式は確かに厳密ですが、場合の数が多くなりすぎると天文学的に時間がかかります。答えのありうる範囲を徹底的に絞りこんで、圧倒的なデータ圧縮を行い、最後に残った数少ない候補だけを厳密に処理して答えを求めるようにしないと、瞬時応答機能をもったコンピュータワールドは構築できません。

求められる基本技術

 人間と対話ができるシステムを目指すために必要な技術を、図4に示します。現在のコンピュータワールドを構築しているハードウエアの基本技術の主役は、トランジスタを中心とする三端子デバイスエレクトロニクスです。三端子デバイスだけで高度な機能をハードウエア上に具現化しようとするとハードウエアが非常に大きな規模になるため、必要な個数のハードウエアをワンチップ上にすべてつくって並列処理させようとしてもそれができません。そこで、かぎられた数のハードウエアだけをつくり、データは順番がくるまでメモリに記憶させ、プロセッサがそれまで行ってきた処理が終わるとメモリからデータを読みだして処理する逐次処理の方式をとっています。データはほとんどの時間、メモリ内に蓄積されています。連続的に処理されるわけではないので、答えがでるまでに時間がかかるのです。さらに、クロック同期システムといって、いっせいに演算処理をスタートしなさいというクロックパルスをうけてすべての場所の電子回路が演算処理を開始しています。このクロック同期方式とシリコン基板を用いたLSIが現在のコンピュータワールドを支えています。これだけでは人間と対話ができるしなやかな電子システムの実現は不可能です。

 そこで、三端子デバイスがもつ不得手な部分を四端子デバイスに置き換える、すなわちバイナリデジタル処理の不得手なところに多値・アナログ処理を導入したバイナリ・多値・アナログ融合処理により、知的な処理を行わせるようにします。また、逐次処理ではなく、一つの機能を実現するハードウエアの規模を小さくして、可能なかぎり多くのプロセシングエレメントをチップ上に集積して並列分散型の処理をさせるようにします。さらに、クロック同期方式の処理を行うと消費電力が大きくなりシステムからの発熱が避けられないため、データ駆動自己同期システムにかえます。

 無駄な演算を排除するためには、二つの新しい手法を導入します。従来の加減乗除演算は、最下位ビットから最上位ビットに向かって行われるため(下位桁先行演算)、結果はすべてバッファメモリに一度蓄積され、引き続く大小比較演算のために結果をメモリから読みだして、あらためて最上位ビットから大小比較を行うという冗長なことをしています。大小比較演算は、最上位桁から数ビットの処理でケリがつく場合がほとんどであるため、加減乗除演算も、もし最上位桁から行えれば(上位桁先行演算)、結果をただちに大小比較処理に入力でき、判定が終了した以降の加減乗除演算は不要となり、バッファメモリが不要となるとともに、処理ステップが激減します。また、ありうる答えをすべて同格に処理するのではなく、特徴量を抽出して、ありうる答えの大枠の絞りこみを行う特徴量抽出データ圧縮を行います。こういった手法で、答えに到達するまでの処理ステップ数を激減させようとしています。そして、処理速度を一桁以上上げるため、金属基板上にLSIを集積したSOI型デバイスにします。

 この六つの技術が、しなやかで柔軟な情報処理を超高速・超低消費電力で実行するために必須であると考えて開発を進めています。

四端子デバイスとは

 では、四端子デバイスエレクトロニクスとこれまでの三端子デバイスエレクトロニクスとは、何か違うのでしょうか。

 これまではバイナリデジタル処理一本槍でしたが、四端子デバイスでは、バイナリの不得手な部分に多値やアナログの処理をとりこんだバイナリ・多値・アナログ融合型の処理が可能になります。それにより、フレキシブルな情報処理が行えるようになり、ハードウエアが小型化します。必要なハードウエアをすべてワンチップ上にのせることも可能になります。また、すべて電圧モードで動作する低消費電力自己学習型のニューラルネットワークも使えるようにしてあります。脳のよい点を真似して、システム全体のパフォーマンスを上げるようにします。

 今まで、LSIはハードウェアという呼び方をしてきました。一度つくるとその機能をかえられないという意味で、固い衣(ハードウェア)となったわけです。しかし、四端子デバイスのように瞬時に機能をかえられるデバイスが登場すると、データが要求する機能に瞬時に、かつ自在に機能をかえられるフレキシブルなハードウェアという意味で、フレックスウェアがこれからは可能になります。ソフトウェアがハードウェアの中に組み込める世界が可能になるわけです。

 また、従来の三端子デバイスは二つの主電極に流れる電流をコントロールする電極が一個しかなかったため、入力信号がある閾値を超えていれば電流を流し、それ以下であると電流が流れないという単純なスイッチ機能にしか使えませんでした。その結果として、二値・デジタル処理によく適応し、厳密な論理演算を得意とするノイマン型コンピュータとは相性がよかったのですが、人間がやっているようなフレキシブルな情報処理は不得手でした。一度つくってしまうと入力電圧による電流制御のされ方そのものが一通りにきまってしまったためです。そこで、電流制御の自由度をもう一次元ふやすために入力電極を複数個もたせるようにするわけです。それにより、フレキシブルで、瞬時瞬時に自分の機能をかえられるデバイスが実現できます。バイナリ・多値・アナログ融合型の処理が非常にやりやすくなります。

 外からはいってくる情報の中から自分の欲しい情報だけをピックアップする瞬時データマッチング回路といった高度な機能を有する回路をつくる場合、従来の三端子デバイスだけで構成すると、トランジスタ数が7000個以上必要となり、ハードウェアが大きくなります。それに対して、四端子デバイスで構成すると、欲しい情報であることを判断するところまでは多値・アナログ処理を使い、答えがきまった瞬間に出力は1/0のバイナリ出力にすることが可能になり、図6に示すようにトランジスタはわずか24個ですみます。これが、バイナリ・多値・アナログ融合処理の典型例ですが、従来のアナログ処理の決定的欠点であった処理段数がふえると誤差や雑音が累積するということがまったくありません。 

四端子デバイスが切り拓く連想知能エレクトロニクスの世界

 人間は毎日の生活の中で大勢の人たちと対話しているわけですが、その都度、頭の中で難しい論理演算を行っているわけではありません。過去の経験と学習により蓄積された知識に基づいて判断・行動しています。連想で答えをだして、5段ぐらいの処理で答えをだしているのだと考えています。

 人の顔などを特定していくとき、まず自分の知っている顔が、過去の経験と学習に基づいて膨大なメモリの中にインプリメントされています。機械の場合はセンサに映った画像から特徴を抽出して、データを圧倒的に圧縮したものと大容量のメモリの間の連想をとり、最後は「一番距離が近いものはどれですか」というウィナー・テーク・オール回路で答えをだします。

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『脳を知る・創る・守る・育む』  その7

ここはトリビアに近いもので、さほど運動自体に関わるところではありません。赤核がなぜ筋緊張のコントロールに関わるのか、軟体動物のような柔らかな筋収縮ができるのかをあれこれ調べているときに、リガンドという言葉に出くわしました。

あとは人間が外界の情報を得る時には、一番使いやすい感覚器を使う、といったベルンシュタインが述べた部分がありますので、載せてみました。

清水 孝雄

ニューロン信号の伝達とGタンパク質共役型受容体

信号伝達と受容体

 神経細胞にかぎったことではありませんが、細胞問では互いに信号伝達を行っています。単細胞生物ではなくて多細胞生物が統一的に生きていくための根本的な仕組みの一つです(図1)。ある一個の細胞Aが細胞Bに情報を送ろうとしたとき、細胞Aから何らかの物質(リガンドと呼ぶ)が放出され、それが血中あるいはシナプス間隙を運搬され、最適な細胞Bに達します。そうすると、細胞Bは受容体でリガンドを認識し、その結果、細胞Aで発せられた信号が伝達され、細胞Bの細胞応答というかたちとなって現れます。この無数の信号伝達が人間の生命全体で起こっています。

 リガンドをうけとめる受容体は大別すると二種類になります(図2)。細胞膜に存在する細胞膜受容体と、細胞の校内に存在する核内受容体です。細胞膜はリン脂質という疎水性の物質でできており、細胞外の水と細胎内の水とをうまく分離して独立した空間をつくりあげているため、油に溶けない分子が細胞にある刺激(情報)を伝える場合、伝達しようとする細胞の細胞膜受容体に結合せざるを得ません。一方、油に溶けやすい分子であれば、脂質の膜を突き抜けて、直接、細脳内にはいりこみ、核内に働いて遺伝子発現を起こすことで信号を伝えることができます。この核内受容体の場合、リガンドが結合することによってある遺伝子が発現するようになりますが、細胞膜受容体の場合、リガンドはあくまで細胎内にははいれないため、細胞内に次の信号をつくりだす必要があります。その細胎内の信号をセカンドメッセンジャーと呼んでいます。

細胞膜受容体の種類と構造

 ところで、細胞膜受容体は何種類かにわけることができ、その代表的な二種類を図3に示します。それは、神経伝達物質の受容体を例にとるとよくわかりますが、一つは受容体そのものがチャネルとなっているイオン透過型受容体です。この受容体にリガンドが結合すると、すぐ細胞膜に穴があき、その穴をナトリウムイオンやカルシウムイオンが通って細脳内に流入・流出します。これは非常に速い伝達反応に適しています。

 それに対して、代謝型受容体は、リガンドが結合すると、細脳内にGタンパク質を介してセカンドメッセンジャーをつくります。そのことからGタンパク質共役型受容体とも呼ばれていますが、それは神経伝達でもゆっくりとした、じわじわした信号伝達において重要な役割を分担しているように思われます。

 ここで詳しく紹介するGタンパク質共役型受容体には、いくつかの特徴があります。一つは、なぜか細胞膜を七回貫通する構造をもっていることです。そして、驚くべきことに、ヒトの全遺伝子の約五%がGタンパク質共役型受容体であることです。約一〇万種あるといわれているヒトの遺伝子は、21世紀の初めにはほとんど解明されるだろうと期待されていますが、そのうちの5%、5000種類がGタンパク質共役型受容体です。そして、その5000種類のうち嗅覚、すなわち匂い受容体が1000種類を占めています。大きなスーパーファミリーを形成するGタンパク質共役型受受容体は、Gタンパク質を介して細胞内にセカンドメッセンジャーをつくることが特徴です。

Gタンパク質による情報伝達の仕組み

 では、このようにしてリガンドが受容体に結合すると、その後、Gタンパク質を介して、どのようにして細脳内にセカンドメッセンジャーがつくられるのでしょうか。Gタンパク質は、αサブユニットとβ、γサブユニットという三量体からなっています。Gタンパク質は、もともとはGTPやGDPに結合することから命名されたものですが、αサブユニットがβ、γサブユ二ットと結合し、GDP型の状態のときGタンパク質は不活性型です。そして、リガンドが結合すると、その受容体はサブユニットを切り離します。そして、構造変化を引き起こしたαサブユニットとGTPの結合物質が活性型となって細胞内にいろいろな信号を伝えることになります(図6)。

 一つの受容体が刺激されると、何個ものGタンパク質が活性化されることから刺激の増幅が起こります。そして、この活性型のGタンパク質は、リガンドがなくなると、細胞は静止状態に戻

ることを繰り返していると考えられます。では、どのような細胞内の効果器があるのでしょうか。 

 私どもがとったある受容体は、細胞の中で実に多くのGタンパク質、例えばGiやGqといったタンパク質と共役して、図7に示すような多数の分子を活性化したり、抑制したりしています。た

だし、このような例は非常に稀で、通常、一つの受容体は一種類のGタンパク質、すなわち一つの信号を起こします。私たちがたまたまとった血小板活性化因子の受容体は、細胞の中で五つも

六つものシグナルを動かすという意味では特別なものです。

Gタンパク質共役型受容体と嗅覚

 では、Gタンバク質共役型受容体は、神経機能とどのような関係にあるのでしょうか。表1に示したように、一つは神経伝達物質、例えばグルタミン酸やアセチルコリン、GABA、セロトニンなどの受容体であることです。また、私どもが長年研究しているプロスグランディンや血小板活性化因子(PAF)、種々のペプチド性リガンドなどの神経調節因子の受容体も、例外なくこのGタンパク質共役型受容体です。さらに、感覚受容体、例えばものをみる、味わう、匂いをかぐといったことに関与する受容体も、例外なくGタンパク質共役型受容体です。

聴覚の情報分析と計算論

河原 英紀

 聴覚の情景分析とは

 聴覚の情景分析とは、さまざまな音源からの信号が渾然一体となった中から、それぞれの音源を聞きわける人間の能力を表す言葉です。われわれは一次元の信号でしかない音から、外界の像をつくりだし、何か起こっているのかを理解することができます。それがどのような計算論に基づいて行われているのかを明らかにすることが、聴覚の情景分析の研究の最終目的になります。

 この聴覚の情景分析という名称は、カナダのブレグマンが一九九〇年に著した[Auditory Scene Analysis』にちなんでいます。この題名は、ブレグマン先生がニ○年ほど研究されてきた聴覚心理のさまざまな現象について、人工知能学会で講演する際に苦労して創出したものです。人工知能の研究者にも興味をもたれるような名称を考える必要があるということで、そのころさかんであった画像の情景分析から苦し粉れにつくったという裏話を聞いています。その後、この言葉は一人歩きしていますが、研究が進むにつれて、その妥当性が明らかになってきました。先見の明かあった命名だと感心しています。

聴覚による情景分析の意味

 ここで、聴覚の情景分析についての有名な実験を紹介します。高音と低音を交互にだし、その交互にだす間隔をかえていくという簡単な実験です(図1)。この実験では、間隔が長い最初のうちは、ピーポーピーポーというように一つの音が上下しているように聞こえます。間隔が短くなるにつれて、高音だけからなる流れと低音だけからなる流れの二つの音の流れ(音脈)に分離して聞こえるようになります。しかも、音脈に分離したときには、それぞれの流れを構成する要素間の時間的な順序関係がわからなくなるといった現象が起こります。これが聴覚の情景分析の典型的な例の一つです。

 ただし、上と下の音の周波数が近いと二つの音脈への分離は起こりません。そこで、音の交代の速度、周波数の差という物理的要因が、分離にどのように影響するかを調べることになります。その結果を図2に示します。周波数の差がある程度以上大きければ、二つの音脈が聞こえます。しかし、周波数の差がある値よりも小さい場合には、いくら間隔を短くしても一つの音脈としてしか聞こえません。なぜ、そのようなことが起こるのだろうかという、ある意味で愚直な疑問をブレグマン先生は抱いたわけです。

 それに対する答えとして、生態学的な説明が提案されています。われわれが長い進化の過程で経験してきた音には、世の中に存在するものからでるという物理的な拘束条件があります。聴覚はそれらの拘束条件に基づいて、得られた音についての妥当な解釈をつくりだすように進化してきたというものです。つまり、聴覚には山勘のような機構が組み込まれていると考えたわけです。山勘といったのは、ユニークな解釈に必要となる十分な証拠が普通は手にはいらないからです。そのような状況でも、とにかく判断しなければなりません。そこで、大多数の場合にはうまくいくような仕組みが聴覚の機能として組み込まれたと考えたわけです。

 この話を少し拡大解釈すると、われわれにとって必要なことは外界で何か起こっているかということであり、それを知るために聴覚を使うか視覚を使うかは、あまり重要ではないということになります。適切な行動をとるために必要な情報が得られればよいわけです。そのような生態学的な視点にたって感覚と行動とのかかわりを考えていくと、ここで紹介した現象のほかにも多くの現象を説明することができます。これは重要な観点です。

耳が音をだす、目が音を聞く

 1978年ごろから、聴覚はたんに情報をとりこむだけの受動的な器官ではなく、自分の望む証拠を見つけだすような能動的な機能をもつことがわかってきました。その一例が、耳が音をだす現象です。耳には感度を上げるためのフィードバック回路が備わっていますが、そのシステムの感度が上がりすぎて発振してしまうのです。実際に、このような状態の耳に高感度のマイクロフォンをいれて調べると、発振に対応する何本もの線スペクトルが検出されます。

 この話を聞いたコンピュータ屋さんが喜びました。耳が音をだすのであれば、将来の人間は耳と耳とをくっつけてモデムのように通信するのではないかというのです。とんでもない発想をする人がいたものです。

 また、目が音を間いていることを示す現象を、1976年にイギリスの研究者マガークが『ネイチャー』に報告しました。この現象は、報告者の名前をとって、マガーク効果として知られるようになりました。前述の耳が音をだすという研究もイギリス人によるものです。イギリス人はかわった発想が得意なようです。

 視覚と聴覚に矛盾する刺激が与えられたとき、それは情報としてどう統合、融合されるのでしょうか。例えば、「バ」といっている音声を、「ガ」といっているときのビデオ画像の音声の部分に録音して刺激を作成します。この刺激を、目をつぶってしばらく聞き、音声が「バ」であることを確認します。そのことに納得した時点で目をあけると、突然、その音が「ダ」あるいは「ザ」と聞こえるようになります。これがマガーク効果と呼ばれる現象です(図3)。

 この目から聞こえる音の犬きさを推定した人がいます。それによると、信号対雑音比が一五デシベルかせげるほどであるとのことです。これは、雑音のエネルギーが約三〇分の一になったことに相当します。普通の人は読唇術を教わっているわけではありません。しかし、生まれてからずっと人の顔をみながら話してきています。これらの経験により、目で音を聞く能力は自動的に組み込まれたと考えられます。視覚と聴覚は、話がわかればよいという目的のもとで協調して慟いている例といえるでしょう。

 音節の方向を知る定位能力と、ほかの感覚や物理的サイズなどとの関係を、いろいろな動物で調べた報告があります。ゾウからネズミまで二〇数種類の動物を四半世紀かけて調べたところ、聴覚の方向定位能力と頭の寸法といった物理的なパラメータとの相関は〇・五程度しかありませんでしたが、網膜の中の錐体細胞(解像度の鋭い細胞)が存在している領域の広がりの角度との相関が〇・九を超えることがわかりました(図4)。この聴覚と視覚の関係は、物理的な制約によるものとは考えられません。むしろ、生物がある生態系の中で自分の都合のよい情報をとりだすときに必要な精度となるように、聴覚と視覚が共通化したことを示唆しています。これは進化の話なので、あくまでも推測でしかありませんが、生態学的な観点で聴覚の問題を考えなければならないということに気づかせてくれた重要なデータです。

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『脳を知る・創る・守る・育む』  その6

ここでは東洋と西洋の解剖学や生理学の歴史的な伝統のお話があります。ギリシャ・ローマ時代からデカルト、行動心理学などに至る道がわかりやすくまとめられています。大学時代は哲学の本とかを読んでいましたけれど、デカルトはなんだか理系っぽいな、という印象があって、著作自体は読んだことはありません。私も解剖学や生理学を本格的に学ぶ前は、脳はなんだか漠然と内臓と同じように分類していました。筋・骨格・神経・血管・心臓系と脳-内臓系、という感じで、いま思うとかなりヘンテコな分け型ですね。

あと運動制御と学習についてです。特にレベルDに関わる話ですね。

村上陽一郎

古代ギリシア・ローマにおける脳-神経系の概念

 紀元前五世紀ごろからアテナイに始まる古代ギリシア・ローマの学問が、ヨーロッパの学問の伝統をなしているとしばしばいわれます。ほんとうのことをいうと、ヨーロッパ人が自分たちの

学問的先祖を古代ギリシア・ローマに簡単に帰すことにはやや問題があると思いますが、学問の源であることには間違いありません。そこで、古代ギリシア・ローマではどうであったかを考え

てみます。

 前五世紀ごろの文献には、脳神経という概念はあまり登場しません。ローマ時代までくだると、その概念がはっきりします。その典型は「プシュケー」と「プネウマ(pneuma)」という概念にかかわります。「プシュケー」は「こころ」、場合によっては「魂」と訳してもよいと思いますが、それをもつことが「生きている」ことを意味します。他方、生命体を物質的原理として支えているものとして「プネウマ」という概念がしばしば使われるようになります。

 ローマ時代には、プネウマは自然のプネウマ、動物的なプネウマなどに分類され、最後に人間だけが必要とするプネウマ・スピリトゥス(pneuma spiritus)が考えられるようになります。プネウマは空気中にあり、それを、こころをもった存在が呼吸によって吸収して体内のこころを支えていきます。人体では肝臓のように静かな臓器は自然的なプネウマを必要とし、心臓のように活発で動作的な器官は動物的で生き生きとしたプネウマを必要とするとしています。動物は、そこまでですが、人間だけはプネウマースピリトゥスという第三番目のプネウマを脳で使っているとしています。このように、精神活動を示すための脳でプネウマ・スピリトゥスが使われるという議論が、ローマ時代のアレクサンドリアにいたガレーノスなどによって行われています。当時、脳が精神活動の中枢として考えられていたことはほとんど疑いがありません。

 

漢方にみる脳神経系の概念

 日本の伝統的な考え方を比較すると、おもしろいことに気がつきます。日本の伝統医学の基本は漢方にあり、その漢方の考え方にしたがえば、三焦と呼ばれる臓器が存在することになっています。上焦、中焦、下焦の三つです。これは、現代の解剖学からは同定されない漢方独特の概念

です。具体的な臓器といえるかどうかわかりませんが、お臍の下ぐらいのところにあるといわれている下焦で、人間のこころとして重要な意志判断、意志決定が行われるというような記述が目

立ちます。

 漢方に脳神経系に対する関心があまりみられないことは、むしろ不思議といえば不思議です。神経という言葉も漢方にはありませんでした。杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』を翻訳して、神経というヨーロッパの概念を引き移すとき、それに相当する言葉がなかったため、しかたなく「こころの道」という意味で「神経」という言葉をつくったわけです。

 このように、あらゆる文化圏が脳神経系をこころの座、精神活動の中枢的で重要な部分であると認識していたわけではありません。そのような状況の中で、古代ギリシア・ローマではいち早

く、現在の私たちのような意味ではないにしても、脳神経系を精神の中枢として考えていたことは注目すべきです。

デカルトにみる脳-神経系

 そして、一足飛びにデカルトヘ飛びます。デカルトは一五九六~一六五〇年、つまり一七世紀前半に生きた人です。そのデカルトの考えが、あらゆる現代的な問題の基礎をなしているという

意味で、多少たちいらなければならない相手です。

 デカルトは延長(extentio:エクステンチオ)という概念でものの世界を表現し、それとはまったく異なった原理の世界として思惟(cogitatio:コギタチオ)の世界、つまりこころの世界を表現しました。そのため、ものとこころのいわゆる二元論が生まれました。これをデカルトのプログラム(カルテシアン・プログラム)と呼ぶことがあります。例えば、ここにマイクロフォンがありますが、このマイクロフォンは空間中にある広がりをもっています。広がりがあるからこそ、そのものの存在を私たちは確認することができます。このように、空間にある広がりをもっていることが、ものの特徴です。私たちは、ものを触ったり、場合によってはなめたり、叩いて音を聞いたり、いろいろな感覚を慟かせて確認することができます。広がりをもっているがゆえに、その存在を誰もが確認できることが、ものの世界の基本的な特徴です。

 それに対して、「我思う、ゆえに我あり」という有名な文章があります。ラテン語では《cogito ergo sum》といいますが、《cogito》というのは第一人称単数現在です。ラテン語であるため、代名詞がなくても《cogito》という規則動詞で、「私は思う」という意味が含まれていますが、ここで明らかになっているのは、第一人称単数現在としての「私は思う」というあり方です。これを思惟などという難しい言葉を使うとわかりにくくなるので、私はよく「痛む」でかまわないと申しています。例えば、頭が痛い、足が痛い、背中が痛い、腰が痛いなどです。ここで、私が痛んでいることをほかの人が、私の痛みを痛みとして感ずることはあり得ません。その意味で、痛みは本質的にプライベートです。

 そんなことはない、同情的で心やさしい人がいて、私が痛んでいるとき、自分も痛んでいると痛みを共有してくれる人がいる、といわれるかもしれません。しかしその場合、私の痛みを共有しているのではなく、その人が痛いということです。私がお腹を押さえて七転ハ倒している状態

をみて、その人が私の痛みを共有していると私にいったとき、それは私の痛みを感じているのではありません。お腹が痛ければその人が痛いのであって、私の痛みではありません。このことは

簡単に証明することができます。私がうそをつけばよいわけです。お腹が痛くないにもかかわらず痛いといって七転入倒してみせると、ほんとうに同情しているのであればその人は痛むはずで

す。その意味で、痛みはきわめてプライベートなもので、このプライベートさが外にでることはないというのがデカルトの基本的な姿勢です。

 それに対して、ものが空間にある広がりをもっていることは、それを万人が触ったりみたりして確認することができます。

松果腺仮説の奇妙さ

 このようにいいきると、専門家が「痛みの作用機序は相当わかっている」とおっしやると思います。例えば、神経細胞の膜にある刺激がはいったときに、その膜の電気的透過性に一種の勾配

ができて、膜の外側と内側にイオンがわかれ、一種のポンピング現象を起こすことが一つのパルスを形成して、しかるべき経路をたどって神経繊維を伝わり、シナプスを通って次の細胞を発火

させるといった状況が起こったとき、その人は痛んでおり、それが痛みの作用機序だとすると、それでよいではないかと多分おっしやると思います。ここが現在の問題でもあるし、ある意味で

永久の問題かもしわまゼんか、それは痛みについてのものの現象です。例えば、カリウム・イオンやナトリウム・イオンなどの動き方や、もっと細かな電子の流れといったものの振舞いの記述

ではあっても、痛みそのものを表現しているとはいえません。そこが永遠の問題になると思います。

 ものは客観的だから、その振舞いを十分に客観的に記述することができます。デカルトの言い分、「痛む、だから私はある」というときの「痛む」は、完全にプライベートで私秘的です。にもかかわらず、私は体として存在しているため広がりをもっています。私の体はそれなりに、ものとして存在しています。そして、私の体がかりになくなったとしても、なお「私は思う」あるいは「私は痛む、ゆえに私はあるといえる」ということがデカルトの言い分です。

 よくひかれる例に、「幻肢」つまり幻の手足という現象があります。例えば、片手を失ってかなりの時間が経ち、傷口がもう痛まないにもかかわらず、あるとき、ないはずの腕の先に痛みを感ずることがあります。場合によっては、神経ブロックをしなければならないほど強い痛みで悩まされることがあります。もちろん、脳科学の先生がたは、脳がなければあり得ないとおっしやると思いますが、それはそうだとして、かりにデカルトの言い分を通そうとすると、体は幻となって、ものとしての私は存在しなくても、デカルトにいわせれば、私が今痛んでいれば、私はあるといってよいということになります。それが、デカルトの《cogito ergo sum》という言葉のもつ本来的な意味です。

 これは明らかに幽霊です。幽霊であっても、痛んだり、苦しんだり、喜んだりしている私が存在しているかぎり、私が存在していると、デカルトはいうのです。このときのデカルトは、二元論者というより、むしろこころ一元論者です。文字通り、人間はそのような存在のあり方をもしています。つまり、体が存在しているのとまったく同等に、体と無縁のところでのこころの存在があるわけです。

 デカルトは不思議な人です。歴史の中でもっとも明晰な頭脳をもっていた一人だと思いますが、不思議なことに松果腺の仮説を唱えています。 当時は、人間の脳の中だけに松果腺があると考えられていました。これがデカルトを迷わせた原因の一つです。その松果腺とは、デカルトにいわせれば、明らかに延長をもったものです。そこでは、ものとこころは統合され相互関係が成立します。松果腺が人間だけにしか見つからないこと自体が間違いであったということを抜きにしても、この仮説がいかに奇妙であるかは、すぐわかります。デカルトの二元論は、もちろん人間だけに適用されるもので、ほかの生物はものの世界だけです。また、そもそもものとこころとはまったく違った存在様式だといいながら、松果腺というものの中で、こころとものとが相互に関係しあえることを考えること自体、非常に奇妙です。

行動主義的人間理解

 このあと、自然科学と呼ぶべき知的世界が構築されていくことになります。その自然科学が目指したものは、次のように簡単な定義で説明することができます。つまり、客観的なものの振舞いとして、あらゆる事柄を描写していくことが科学の本質にになります。ですから、科学はこころの世界、魂の世界にはたちいりません。たちいることは一つのタブーになっていきます。自然科学はその意味で、禁欲的であり続けました。自然科学は、こころの現象にはたちいらない、たちいれないという結論を得たように思います。

 それが、新しい展開をみせたのは今世紀の初めです。いわゆる行動主義的な人間理解と呼ぶべきもので、J・B・ワトソンというアメリカの心理学者が火をつけました。このワトソン流の行動主義的な人間理解は、心理学でありながら、こころを問題にしていません。こころをブラックボックス化して、あるともないともいえないものとしてとらえています。なぜならば、こころはデカルト的な意味で完全に狐狸的で、客観的に追求していくことが許されない世界です。心理学が科学であろうとする望みをもつ以上、もはや心理学はこころそのものを相手にすることを捨てなければならない、というのがワトソンの言い分です。ワトソンは心をブラックボックス化して、それに言及することはやめたわけです。

 そのことにより、刺激反応系としての人間というかたちでの人間理解が現れることになります。人間は、外からはいってくる刺激に対して、どのような応答を起こすかという記述をすることで、こころについて語ることにかえるのです。そのため、ワトソンの心理学は刺激(Stimulus)のSと応答(Response)のRをとり、SR心理学と呼ばれたこともあります。刺激と応答の間の変換系の一つのシステムとして理解するのであれば、外からしかじかの刺激を与えたとき、しかじかの反応を示したというデータをとることもできます。客観的にアプローチすることができます。

 こころをブラックボックス化して、刺激反応系としてだけ人間をとらえ、こころという概念にはたちいらないことで心理学は科学になり得ました。

竹市雅俊

神経回路形成とカドヘリン

カドヘリンの構造と役割

 まず、カドヘリンについて簡単にしておきます。カドヘリンはジッパーのようにして細胞をつなぎとめています。われわれの体は、赤血球のようなばらばらの細胞を除くと、ほとんどすべての細胞はカドヘリンによって安定に結合しています。カドヘリンがないと細胞はばらばらになって組織を維持することができません。

シナプスにおけるカドヘリン-カテニン接着装置

 シナプスは神経回路の中でもっとも重要な情報伝達の場です。脳機能の中枢を占めているため、その構造についてはよく研究されていますが、意外なことに、どのようにシナプスが形成されるか、詳細は不明です。

彦坂 興秀

運動制御と学習

宣言的記憶と手続き的記憶

 学習は私たちの行動にとって重要な意味をもっています。例えば、ある人に二〇〇ページほどの本を読んでもらい、そのときの読むスピードを測定してみましょう。ただし、その本は普通と

は違い、文字が反転して書かれているとします。そのような文章を初めてみたとき、すらすらと読むことはとてもできません。ところが、最初の1ページ目を読むのに10分以上かかっていても、200ページ目に近くなると二分以内で読めるようになります。これは練習の法則(low of practice)と呼ばれている現象です。練習することにより、それまでできないようなことができるようになることを技能(skill)といいますが、獲得された技能は、脳のどこかに長期的な記憶として蓄えられていると推定されます。それを記憶というのか、と皆さんは首をかしげるかもしれません。

 記憶には大きくわけて宣言的記憶と手続き的記憶の二種類があるといわれています(表1)。宣言的記憶とは、昨日、どこで、誰と会って、何をしたといったものです。それに対して、例えばコンピュータを自在に操るといったものは手続き的記憶に含まれます。宣言的記憶の場合、その内容は心の中に具体的な情景として呼び起こされるのに対し、手続き的記憶は、何かをしたり

運動することによって表現されるため、多くの場合、無意識に行われます。

 この手続き的記憶は、試行錯誤を繰り返すことによって獲得されます(表2)。そして多くの場合、複雑な順序が必要なため、最初は難しく、注意して行うことになりますが、繰り返すうちに自動的に行えるようになることが特徴です。例えば、芸術、音楽、スポーツにみられるような、超絶的な技巧や技術は手続き的記憶の賜物です。それだけでなく、日常的な動作や職業的な技能も、こういった手続き的記憶の一つと考えられます。さらにいえば、言葉を操るといった言語的な機能も手続き的記憶の機能のシステムに強く依存しています。

1 2つの記憶

1.宣旨的記憶 Declarative Memory

2.手続き的記憶 Procedural Memory

2 手続き的記憶の性質

l.試行錯誤   2.繰り返しが必要

3.順序をもつ  4.生産的一自動的

5.長期的、保持される

 では、脳のどこがどのように働いて形成され、保持されるのでしょうか。それに関しては、あまりよくわかっていません。宣言的記憶に関しては、側頭葉の海馬を中心とする領域が重要であることが知られていますが、手続き的記憶ではそのような領域はあまり重要ではないようです。しかし、どこが重要かといわれると、よくわかっていません。ここからが、私たち実験的神経科学の出番です。

2×5課題の概要

 まずはっきりしているのは、神経細胞一個をとりだしてもこの研究はできないということです。麻酔した動物でも多分駄目です。被験者となる動物やヒトは一生懸命、学習することが不可欠であるため、一定の学習課題を用意する必要があります。

手続き的記憶の特徴

 このような手続き的技能の特徴は、いったん覚えたらなかなか忘れません。

 このことから、一口に行動手続きの学習といっても、最初にそれを学習したときと、完全にそれを習熟したときとでは質的な違いがあり、関係する脳の領域も違っているのではないかと考えられます。

記憶のメカニズムと学習のメカニズム

 この手続き学習と手続き的記憶に関して、私どもは図2に示すような作業仮説を考えています。すなわち、新しい手続きを学習しているときに働く脳の領域と、それを習熟して長期的な記憶として蓄える脳のメカニズムは別に存在するということです。これを学習のメカニズムと記憶のメカニズムと呼んで区別することにしますが、私どもが考案した前述の課題は、この作業仮説を検証するのによいモデルになると思われます。

 私どもの仮説によれば、学習のメカニズムを構成する神経細胞は、新しい手続きを学習しているときには活動が上昇しますが、すでに習熟した手続きを行っているときには変化しません。それに対して、記憶のメカニズムを構成する神経細胞は、習熟した手続きを行っているときに活動し、新しい手続きを行っているときには変化しないと考えられます。そのことを単一ニューロン活動の記録により検証することにしました。

 これまで私どもは大脳皮質と大脳基底核、小脳の三領域をターゲットに調べてきましたが、興味深いと思われた領域は、補足運動野です(図3)。この補足運動野は、これまで複雑な順序をもった運動に関係しているといわれてきました。そして、私たちの実験でさらに興味深い結果が得られたのは、その前にある前補足運動野です。この領域は東北大学の丹治先生たちが最初に発見された脳の中でも特に興味深い領域です。この前補足運動野の神経細胞一個の活動例を図4に示します。この図は、前補足運動野の神経細胞の活動を記録しながら、習熟した順序の三つと、新しい順序の三つをやらせ、そのときの神経細胞の活動をラスターとヒストグラムで表したものです。この図からわかるように、この神経細胞は習熟した順序に関してはほとんど活動しませんが、新しい順序に対しては、それぞれのセットで最初のボタン押しの前に強く活動しました。このように、前補足運動野の神経細胞が特に新しい順序を学習しているときに選択的に強く反応していました。このことは、私どもの仮説によると、前補足運動野は学習のメカニズムを構成する一つであることを示唆しています。

ヒト脳での学習メカニズム

さて、一人の被検者の一例を図6に示します。この図では、この学習に選択的に活動が増加した部分を示しています。この被検者について何回実験しても、特定の4つの領域が常に活動していました。すなわち、前頭葉の前補足運動野(proSMA)と背外側前頭連合野(prefrontal cortex)と、頭頂連合野の楔前部(precuneus)と頭頂間溝(intraparietal sulcus)です。

では、これら4領域の関係はどうなっているのでしょうか。

学習に関連する脳領域

 そのようにして調べると、背外側前頭連合野と前補足運動野は、学習の前半に強く活動しており、後半になるとその信号は弱くなりました。それに対して、頭頂連合野の活動は、内側の楔前部では中盤にかなり高くなり、頭頂間溝の領域は中盤から後半に高くなりました。ただ、人によって早く学習する人とそうでない人がいるので、それを比較するために、学習の進展度にしたがって分類した結果を図8に示します。

 6人の被検者で学習の初期と中期、後期というように三段階にわけ、その四領域のfMRI信号の差を調べたところ、外側前頭連合野は初期にもっとも高く、前補足運動野は初期と中期に高く後半では低くなりました。内側の頭頂連合野は中期に高く、外側の頭頂連合野は中盤から後半にかけて信号が高くなりました。すなわち、手続き的学習の初期に活動する領域は、前補足運動野と外側の補足運動野、さらには基底核の前方です。それを繰り返していると、その活動はだんだん低下して、そのかわりに頭頂連合野の活動が高まるようになりました。

前補足運動野の破壊効果

 私どもの作業仮説にしたがえば、学習のメカニズムを破壊すると、新しい手続きを覚える成績は低下しますが、すでに習熟した手続きはできます。一方、記憶のメカニズムを破壊すると、新しいことは学習できますが、すでに覚えたことはできなくなることが予想されます。

 対称群では、習熟した順序に関してはエラーが平均で1回以下でしたが、新しい順序に対しては8回近いエラーがみられました。その状態のサルの前補足運動野に微量注入したところ、新しい順序に対してのエラー数が有意に増加しました。補足運動野でも同じ傾向がみられましたが、前補足速前野ほどではありません。それに対して、習熟した順序に関しては、どちらの注入によっても有意な変化はみられませんでした。すなわち、前補足速前野の神経細胞は新しい順序手続きを学習しているときに活動が高まり、その神経細胞の活動を停止させると新しい学習が阻害されます。したがって、前補足運動野は学習のメカニズムを構成する重要な領域であるといえます。

記憶のメカニズムと小脳

 では、この習熟した順序手続きに関してはとこが慟いているのでしょうか。

 先はどのfMRIのデータから考えると、一つの候補は頭頂連合野です。しかし、ヒトで何回も練習させたあとでfMRIで調べると、それらの領域の活動は非常に低くなっていました。ほかの領域が関与している可能性があります。考えられるもう一つの候補が、小脳です。小脳の情報は、ほとんどすべて小脳歯状核を介して出力されるので、そこをブロックすれば小脳で起こっていることがわかると期待されます。そこで、小脳歯状核やほかの核に電極を刺入して神経細胞の活動を調べ、その後、Muscimolを微量注入しました。

 一頭のサルの右と左の歯状核と、もう一頭のサルの右の歯状核へ注入したところ、ほとんど同じ結果が得られました(図10)。歯状核のプロックの結果、注入と同じ側の手を使っているときには、習熟した順序手続きでのエラー数が有意に増加しました。それに対して、新しい順序手続きのエラー数に変化はみられませんでした。このパターンは先はどの前補足運動野の結果とは逆です。しかも、反対側の手を使っているときは、対照群と比べ、習熟した順序も新しい順序も変化がみられません。この実験結果から、小脳は習熟した順序手続きの記憶を蓄えているか、それをひきだすために重要なこ学習に関係する脳の領域とをしているということが結論づけられます。新しい順序を覚えるときには、それは重要ではありません。また、その記憶は学習した手に依存しています。右手で学習すれば、右手側の小脳核、小脳に記憶に関係するものが生まれるようです。

行動手続き的な学習と記憶のメカニズム

 以上の話をまとめると図11のようになります 手続き的記憶の特徴として、最初は注意を払って学習することが必要ですが、次第に自動的になっていく、ということを話しました。一方、私たちの実験によって、手続き学習の経過にともなって関与する脳の領域がシフトしていくという結果が得られました。これらを考えあわせて、次のような仮説をさらに提唱したいと思います。

 前補足運動野や外側前頭連合野などの前頭皮質と大脳基底核の前方領域は、手続きを知識として獲得するために必要である。頭頂連合野の領域は、視覚運動の順序を手続きとして蓄える。しかしさらに繰り返し練習すると、練習に使った手に固有の技能としての記憶が小脳を中心とした領域に形成される。

 このシェーマでは、関係する脳の領域が移りかわるという印象を与えるかと思いますが、必ずしもそうではないかもしれません。おそらく、これらの領域は、最初から最後まで固有の機能をもっていますが、学習の時期によって、前頭から頭頂、そして小脳に向かってその重要性が移りかわると考えられます。

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『脳を知る・創る・守る・育む』  その5

ここでは、電子的な概念で脳を説明してみよう、という話です。

私もコンピュータを引用してみたりしましたが、やはり専門家の方々のお話はとてもわかりやすく、合理的です。

淺川和雄

ロボットとニューラルネット

ロボットの制御系

 ロボットの制御系は、三つの階層に分類すると理解しやすくなり