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ベルンシュタイン IV 動作の構築について(3)

ここはちょっとしたまとめです。

新しい課題と脳の発達

 脳がどのようにして次第に複雑になってきたかという問題については、すでに動作の歴史に関するエッセイで見てきました。生存闘争のもとでは、運動の「武装」を徐々に強固なものにしていかなければならなりませんでした。同時に、動物が運動によって解決すべき課題はより複雑で多様になってきました。運動によって解決すべき課題(運動への要求)が難しくなると、どうしてもよりすばやく、より正確に、そしてより巧みに動作を行わなければならなくなります。長きにわたる進化の過程で脳とその付属器官が発達しだのは、このためです。状況は最近になって比較的短期間のうちに変化したのかもしれません。人間においては、大脳が絶対的な支配者の地位についているため、動作自体は重要な役割を失って目立だなくなり、かわりに労働や知性の要求が前面に出てくるようになりました。

 生存闘争が激しくなると、動物が現在もっている以上の能力を要求するような運動課題が次第に増えていきました。このため、時が経つにつれ、必然的に課題を解決することが難しくなっていきました。動物は、生き残るために、より複雑な新しい運動を行わざるを得なくなったのです。新たな要求に対応するためには、乗り越えるべき大きな壁がありました。それは、新たな感覚調整を習得することです。

 第II章では、感覚による調整が身体器官の制御をするための基礎となることを詳細に説明しました。身体の器官が、脳の指令にしたがって要求されたことを正確に行うためには、脳は動作を持続的に制御する必要があります。このためには、感覚器官(第III章では受容器と呼びました)が、動作の進行に関する信号を絶えず脳へ送り続けなければなりません。そうすることで、脳は遅れることなく、必要な変更(調整)を施すことができます。自由度がゼロならば動さようがなく、自由度が一しかない場合には動作は固定した変更のできない経路をたどるしかありませんが、たった一つの冗長な自由度があるだけで、つまり自由度が一より多くなるだけで動作選択の自由が無限に広がります。つまり動作を制御するためには、適切な感覚調整によってじゃじゃ馬のごとき冗長な自由度に手綱と鞍をとりつける必要があるわけです。当然のことながら、受容器はまずもって動作に必要不可欠な情報を脳に伝えることができなければなりません。誤った情報が伝えられれば、動作の協応性が乱れるばかりか動作全体が支離滅裂になりかねません。たとえば、爬虫類は前肢を歩行(移動)の目的以外に利用することができません。一方、哺乳類は、多様な動作のために前肢を利用することができます。イヌやオオカミが行うように食物の採取をしたり、ネコのように相手の顔を引っ掻いたり、シカのように雪を掘ったり、リスのように物をもったり、意味的にも多様性の面から見てもより複雑な動作を行うことができます。爬虫類はこのような微妙な差異を知覚することがなく、そしてそれ以上に重要なことには、異なる感覚(触覚、筋-関節感覚、視覚など)を組み合わせて一つにする(統合する)ことができません。哺乳類が行うような複雑な動作にはこのような統合が必要となります。同様に、六ヵ月の赤ん坊の感覚調整は大人の域にはほど遠いので、見ていて欲しいと思ったものでも掴むことができません。一生懸命ではあるが報われないあがきぶりを見れば大人との差異は明白です。赤ん坊のやることなすことがみな空回りしてしまうのは、異なる感覚情報をうまく組み合わせることができないからです。これができるから、私たち大人は目の前にある対象をさっと掴むことができるのです。

 これも第Ⅲ章ですでにみてきたことですが、脊椎動物の脳はそれぞれの段階的で飛躍的に発達し、そのつど質的に豊かになっていきました。発達過程にはこのような飛躍あるいは決定的瞬間があったわけですが、これは、新たなクラスの動作習得という積年の課題がうまく解決されたことを意味します。その結果、中枢神経系は新たなクラスの感覚調整を獲得し、新しい、差し迫った課題を適切に解決できるようになりました。新たなクラスという用語は、感覚作用における直接的で新しい特性か、あるいは感覚の処理、比較、評価、統合に関する新たな方法を意味します。これら新しいクラスの感覚調整が、これに対応する新たな脳の設備を必要とすることは自明でしょう。当然、脳の構成も更新されます。この更新は徐々に起こるのではなく、大規模な質的変化を件う急激な飛躍を通して一気呵成に進みます。発達におけるこのような飛躍は、脳という建物に新しい階、つまり新しい運動系を次々につけ加えることになりました。

 脳の発達は、全体を通してみるとちょうど建物に新しくより上の階が増築されていく歴史にたとえることができます。人間の脳は、遠い昔に家主のささやかな願望のもと建てられた平屋づくりのマイホームに似ています。次世代の住人はより多くを望むようになります。そのころには家計も豊かになり流行も変化したため、もともとの家に二階を建て増します。彼らは台所や洗面所を一階に残して、居間を二階に移します。その息子はいっそう裕福になり、両親より野心的になります。息子は古風な父親が生涯を過ごしたベッドルームや事務所やチャペルつきの二階部屋に飽きたらなくなり、書斎やアトリエが欲しくなります。息子は二階の上に三階を建て増しましたが、旧い一、二階のデザインや設備はあまり変えず、新しい生活や仕事の秩序にあわせてほんのわずかに調整して維持するだけでした。これは容易に想像のつくことですが、各世代の所有者が一階から順に六階や七階まで増築していった結果、家は建築的設計に欠け、芸術的な統一性のないものになってしまいました。人間の脳も事情は同じです。少なくとも運動制御に関する鎖野はきわめて複雑化したため、安定せず、故障しやすくなってしまいました。人間の運動制御の特徴については、その多くが歴史的な理由から説明され、正当化される必要があります。神経疾患の担当部署で働いた経験のある人なら誰しも、一見鬱病に見える症状がいかに多種多様な脳障害から引き起こされるかを、そしてそれがいかに簡単に引き起こされるかをおぼえているでしょう

ここでは、脳の異なる部位の働きをお互いにうまく適合させるためには膨大な作業が必要になることを指摘するにとどめておきます。異なる世代における、何百年にも及ぶ異なる部位の適応の結果、病気や障害を被らなければ、という条件で、人間の脳は高性能で生産的な器官となりました。

芸術は、人間の苦悩から昇華されたもの、とか言ったりします。

芸術的に人間の脳が統一されていたら、果たして芸術的だ!と感じられるものをヒトは生み出せたのでしょうか?

いわゆるクオリア、覚醒感覚、生々しい感覚に訴えるものですね。

クオリアが生きる根源から湧き上がってくるものとしたら、その部分に訴えるもの、なのでしょう。

おそらく、人間が動物的な部分を持っていなかったら、そういうところに訴えかけるものはできないんじゃないかな、と思います。 

この記事のまとめ

◆身体の器官が、脳の指令にしたがって要求されたことを正確に行うためには、脳は動作を持続的に制御する必要がある。

◆感覚器官(受容器)が、動作の進行に関する信号を絶えず脳へ送り続けなければならない。そうすることで、脳は遅れることなく、必要な変更(調整)を施す。

◆自由度がゼロならば動さようがなく、自由度が一しかない場合には動作は固定した変更のできない経路をたどるしかないが、たった一つの冗長な自由度があるだけで、つまり自由度が一より多くなるだけで動作選択の自由が無限に広がる。

◆動作を制御するためには、適切な感覚調整によってじゃじゃ馬のごとき冗長な自由度に手綱と鞍をとりつける必要がある。

◆受容器はまずもって動作に必要不可欠な情報を脳に伝えることができなければならない。

◆誤った情報が伝えられれば、動作の協応性が乱れるばかりか動作全体が支離滅裂になりかねない。

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