« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

ベルンシュタイン VI 練習と運動スキル(5)

最小限の努力でさまざまな種類のよく計画された感覚を経験し、これらすべての感覚を、意味を理解しつつ吸収し記憶する上で最適な条件を創り出すように組織化された、最も実用的で正しいトレーニングとはどのようなものでしょうか。

運動スキルの構築

 先導レベルと運動の構成

 すでにみてきたように、運動スキルに関する旧来の理解には二つの基本的な誤りがあります。まずはじめに、スキルは、中枢神経系が好むと好まざるとにかかわらず、中枢神経系の中に入り込み定着すると誤解されていました。本当は逆で、神経系はスキルに従属するのではなく、スキルを自らの内部に組み立てます。つまり、練習とは能動的な組み立てのプロセスです。次に、スキルは神経系に徐々にゆっくりと入り込んでいくと誤解されていました。ちょうど、釘をハンマーで打って徐々に壁に打ち込んだり、衣服に、はじめは10%、次に25%、その次に75%というように徐々に染料をしみこませていくようにです。神経路が開通するまで、舗装工事をずっと続けるようなものです。本当は逆で、スキルの構築は、あらゆる構築や発達のように、質的に大きく異なる別々の段階から構成されます。スキルの構築は意味のある連鎖反応であり、各段階を省略したり、入れ換えたりすることはできません。これは、コートを着る前にコートのボタンを掛けたり、タバコに点火する前にマッチの火を吹き消すわけにはいかないのと同じことです。スキル自体は均質なものではありません。先導レベルおよびその背景調整、高次構造および補助構造、異なる自動性、調整、および通訳など、これまで議論してきたすべてのものが含まれています。スキルが誕生し、発達し、一生を送る過程も、同じように均質ではありません。この歴史を、サイクリングと棒高跳びという複雑さの異なる二つの代表的なスキルを用いて順次紹介してみましょう。そのほか、スポーツや、労働や、日常生活のスキルからの例も顔を出すことになるでしょう。

運動をするには順番に連鎖的に、身体を動かしていく必要があります。

・スキルの構築は、あらゆる構築や発達のように、質的に大きく異なる別々の段階から構成される。

・スキルの構築は意味のある連鎖反応であり、各段階を省略したり、入れ換えたりすることはできない。

・スキル自体は均質なものではなく、先導レベルおよびその背景調整、高次構造および補助構造、異なる自動性、調整、および通訳など、これまで議論してきたすべてのものが含まれている。

・スキルが誕生し、発達し、一生を送る過程も、同じように均質ではない。

 私たちが新たな運動課題に出会ったとき、まずはじめに問題となるのは、やはり責任をもって面倒を見る保護者となる先導レベルをはっきりさせることです。しかしながら、健康な成人ならば、まったくはじめての運動課題を行うときであろうがなかろうが、この問題は解決ずみでしょう。そもそも成人であれば、今までの人生で出会ったことのないような運動課題など存在しないと断言できるであろうし、少なくとも最初は行為のレベルDが先導して制御する必要があるはずです。誰しも少年時代や青年時代を通じて、空間のレベルCだけで人間の動作をほぽすべて独立して先導したなんらかの経験をもちます。この理由に加えて、成人ではほとんどの動作がレベルDで制御されているため、このレベルDは新たなスキルを構築する責任者になることに慣れています。似たような運動スキルでも、成人における発達と、高次の空間レベルC2より上のレベルをもたない赤ん坊や動物における発達とが異なるのはこのためです。

 ここで注意すべきことがあります。とりわけこの習慣のために、行為のレベルDはいつもスキルを習得しはじめるとき先導的な役割を果たしてしまいます。空間レベルCが当然制御の担当を交代して受けもつべき場面でさえ、レベルDが先導してしまいます。たとえば、このプロセスは、水泳のような典型的な移動運動を学習しはじめた場合に生じます。この事実が示すのは、先導レベルの交代が困難で骨の折れるプロセスであり、すばやく簡単にできる背景調整の交代とは好対照をなすということです。それゆえ、水泳のようなスキルは、子供より大人の方が自動化するのに多くの努力を要し、時間がかかります。子供の場合には、このようなスキルはすぐに空間レベルCによって制御されるようになるからです。このような空間的スキルは、子供のころに学習しておくべきです。そうすれば少ない労力ですみます。

皮質脊髄路(錐体路)とレベルC2とレベルDの違いがちょっと分かりにくくなっています。

レベルC2は皮質錐体路、という記載が本文の中にあります。

皮質錐体路とは、おそらく皮質脊髄路(錐体路)のことだと思われます。

皮質脊髄路では、40%が運動野固有、のこり60%が前頭葉、または頭頂葉からきます。

一次運動野(ブロードマンの4)は脳地図(ホムンクルス)があるところです。

運動前野(ブロードマンの6)とは、一次運動野の前方にあります。

運動前野は、ボタンを押そうとしたらまず1番に働き始めるところでした。

6野は運動の発現です。

運動前野は運動前皮質と補足運動野の2つの領域があります。

運動前皮質は半球の外側部表面にあります。

二次運動野(別名:補足運動野)は半球の前内側面にあり、ここにも身体の全体図があります。

運動前野を刺激するには、強い電流が必要です。

運動前皮質の損傷では、運動をコントロールするための外部からの手掛かり信号(たとえば視覚刺激)を用いる能力を損ねます。

補足運動野の損傷では、内的な運動記憶に基づく運動を構成する能力を損ねます。

(参考図書:マーク.L ラタッシュ著『運動神経生理学講義 細胞レベルからリハビリまで』p136)

レベルDは言語中枢などが特徴的なレベルDの領域となっています。

言語中枢は前頭葉にあります。

巻末にはレベルCが線条体・視覚野・聴覚野、レベルDが運動前野になっています。

ちょっとややこしくなってきたので、次の記事に譲ります。

ちょうどいい本が手に入りました。

・先導レベルの交代が困難で骨の折れるプロセスであり、すばやく簡単にできる背景調整の交代とは好対照をなす。

大人になったら全部言葉で考えてしまう、というのは悪い癖です。

子どもの方が飲み込みが早い、という経験は、大人になって家族でレジャーを楽しんでいる人なら体験したことがあると思います。

個人的には、命の関わる水泳と柔道のような格闘技の受け身は、子どものころに身につけておいた方がいいのではないか、と思います。

 新しいスキルを構築する二番目の段階は、運動構造の構成[組み立て]として定義されています。第一の段階(すなわち、先導レベルを選択する段階)はあまり時間がかからないので、実質的にはこの段階から学習のプロセスがはじまることになります。

 空間のレベルによって制御される単純な動作に関する限り、運動の構成は動作のパターンや性質のあらゆること―これはしばしば運動構築と呼ばれる―に関わっています。運動競技や体操のスキルでは、運動構成は、ほぼ動作のスタイルと呼ばれるものに相当します。たとえば、幅跳び、平泳ぎ、クロール、バタフライには、西洋式のスタイルと東洋式のスタイルとがあります。生理学者ならば、それぞれの移動運動に対してそれぞれ異なる運動構成を割り当てるでしょう。

 レベルDに属する複雑な連鎖反応を構成する際には、分離した運動リンクの構造とそれらの動作リストの両方を使います。たとえば、壁にねじ釘を通すという運動を組み立る際には、錐を取り握る、穴を開ける、ドライバーとねじ釘を手にとる、ドライバーを回すなどの動作を用います。

 ほとんどのスキルでは、運動構成は問題なく決まります。私たちは、子供のころから多くの動作やスキルを観察してきました。自転車に果る練習をはじめた人は、おそらく子供のころ三輪車に乗った経験があるでしょう。これら二つのスキルには共通する動作が多いです。運動競技や体操の動作、あるいは労働に関わる動作では、ふつうコーチや指導者がいて、動作を実演し、説明してくれます。また、部分に分けて示すこともできます。それにもかかわらず、運動構成を決定するときには面倒が多く、苦労することもあります。

 スキルを学習しようとして面倒な問題が生じるのは、たいてい自分一人だけでやろうとしているときです。運動構成を発明することに、しばしば多大な時間を費やしてしまいます。ロビンソン・クルーソーは、無人島でひとりぽっちになったとき、若いころに単純な職業的スキルを学はうとしなかったことを深く後悔しました。彼は結局長い時間を費やして、仕立屋や、建具屋や、陶工の基本的なスキルを学習するはめになりました。だが、問題に直面するのは初心者だけではありません。特に、棒高跳びなどでは、何十回も繰り返し見ても肉眼では見分けがつかないようなきわめてすばやい数多くの微調整が含まれます。たとえ何か気づいたとしても、それを実際に自分の身体で行うのは難しいです。たとえば指導者とまったく同じように腕や体幹をひねりなさいと言われても、簡単にはできません。さらには、体つきや、筋肉や、とりわけ各脳レベルの構造や発達具合は十人十色であるため、あるスキルの概略をおおよそ獲得した後には、身体運動構成をいろいろと調整して、学習者本人の個性にうまく合わせる必要があります。ときに学習者は、台を飛び越えやすくする腕のひねりかたや、道具や補助具を操作する特定のやりかたなどをみつけることがあります。ここには、才気溢れる同胞スタハーノヴィッチ(スタハーノフの後継者たち。スクハーノフは一九三〇年代半ば、ソビエト社会主義共和国連邦において「コミュニスト労働の強化」を目指した社会運動のきっかけになった人物)が労働の最前線でみせたような、発明と合理化のための余地が大いにあります。

この記事のまとめ

◆神経系はスキルに従属するのではなく、スキルを自らの内部に組み立てる。つまり、練習とは能動的な組み立てのプロセスである。
◆スキルの構築は、あらゆる構築や発達のように、質的に大きく異なる別々の段階から構成される。
◆スキルの構築は意味のある連鎖反応であり、各段階を省略したり、入れ換えたりすることはできない。
◆スキル自体は均質なものではなく、先導レベルおよびその背景調整、高次構造および補助構造、異なる自動性、調整、および通訳など、これまで議論してきたすべてのものが含まれている。
◆スキルが誕生し、発達し、一生を送る過程も、同じように均質ではない。
◆私たちが新たな運動課題に出会ったとき、まずはじめに問題となるのは、やはり責任をもって面倒を見る保護者となる先導レベルをはっきりさせることである。
◆最初は行為のレベルDが先導して制御する必要がある。
◆誰しも少年時代や青年時代を通じて、空間のレベルCだけで人間の動作をほぽすべて独立して先導したなんらかの経験をもつ。
◆成人ではほとんどの動作がレベルDで制御されているため、このレベルDは新たなスキルを構築する責任者になることに慣れている。
◆似たような運動スキルでも、成人における発達と、高次の空間レベルC2より上のレベルをもたない赤ん坊や動物における発達とが異なるのはこのためである。
◆この習慣のために、行為のレベルDはいつもスキルを習得しはじめるとき先導的な役割を果たしてしまう。空間レベルCが当然制御の担当を交代して受けもつべき場面でさえ、レベルDが先導してしまう。たとえば、このプロセスは、水泳のような典型的な移動運動を学習しはじめた場合に生じる。
◆先導レベルの交代が困難で骨の折れるプロセスであり、すばやく簡単にできる背景調整の交代とは好対照をなす。
◆水泳のようなスキルは、子供より大人の方が自動化するのに多くの努力を要し、時間がかかる。子供の場合には、このようなスキルはすぐに空間レベルCによって制御されるようになるからである。このような空間的スキルは、子供のころに学習しておくべきである。そうすれば少ない労力ですむ。
◆移動などの空間的スキルは子どものうちに学習することが望ましい。
◆新しいスキルを構築する二番目の段階は、運動構造の構成[組み立て]として定義されている。第一の段階(すなわち、先導レベルを選択する段階)はあまり時間がかからないので、実質的にはこの段階から学習のプロセスがはじまることになる。
◆空間のレベルによって制御される単純な動作に関する限り、運動の構成は動作のパターンや性質のあらゆること―これはしばしば運動構築と呼ばれる―に関わっている。運動競技や体操のスキルでは、運動構成は、ほぼ動作のスタイルと呼ばれるものに相当する。
◆レベルDに属する複雑な連鎖反応を構成する際には、分離した運動リンクの構造とそれらの動作リストの両方を使う。
◆スキルを学習しようとして面倒な問題が生じるのは、たいてい自分一人だけでやろうとしているときである。
◆体つきや、筋肉や、とりわけ各脳レベルの構造や発達具合は十人十色であるため、あるスキルの概略をおおよそ獲得した後には、身体運動構成をいろいろと調整して、学習者本人の個性にうまく合わせる必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルンシュタイン VI 練習と運動スキル(4)

つぎは運動スキルとは何か、という話です。

こちらの方が、パブロフに対する批判が分かりやすいです。

運動スキルとは何か

 一九世紀、ヘルムホルツがはじめて神経にそって伝わるインパルスの速度を測り、一秒間に約100メートルの速度であることが見いだされて以来、数々の事実が蓄積され、人間や高等哺乳類の神経系は非常に高速な器官であることが示されてきました。私たちの祖先は、不遜にも、思考が稲妻よりも速かろうと考えていたがそんなことはなく、私たち人間は脳の処理速度が電気や光の現象よりもずっと遅いという事実と共に生きていかなければなりません。それにもかかわらず、人間の中枢神経系には、千分の一秒、あるいは一万分の一秒のうちに計測できる出来事があります。興奮の波は脊髄の指令細胞から筋までの間を三~四ミリ秒(ミリ秒とは、一秒の千分の一のこと。ミリメートルやミリグラムも同様)で駆け抜けます。大脳半球の一方から反対側への伝達時間は1ミリ秒以下です。筋は、電気的インパルスに応答して1ミリ秒の10分の一以下の時間で収縮可能です。神経興奮の波がある神経細胞の側枝から別の神経細胞へとジャンプするのに要する時間も、同じくらい短いです。現代のデータからいえば、人間の神経系は非常に高速な生物器官です。このような速さと、神経系が一つの新たな結合路を「踏み均す」のに何カ月もかかるという考えとが、どうやって共存できるのか理解しがたいです。このきわめて高速な装置を、写真を写すのに耐え難いほど長く露出時間を要する感度の低いフィルムにたとえてしまった理由は、不注意以外に考えられません。

現在では脳卒中の方などで、脳に損傷を受けた方の脳に可塑性があるかどうか、という研究が進められています。

可塑性とは、一度特定の機能を獲得した神経細胞がほかの機能を獲得する能力を意味しています。これまで成熟後の神経細胞には可塑性が少ないと考えられてきましたが、成熟後の脳も大きな可塑性を持つことが明らかにされています。

神経細胞の新生もない、という従来の定説も、覆されつつあります。

(参考図書:川平和美『片麻痺回復のための運動療養』)

ES細胞は京都大学の山中伸弥教授、札幌医科大学付属病院脳神経外科の宝金清博教授などの手で進められています。

再生医療における脳神経と機能の回復と、運動スキルの発達の仕方とはまた別物、と考えた方がよいと思います。

ただ、『進化した脳』でも、癒合などで4本しか指がなかったひとが、5本に増えた時に1週間でそれに対応する脳の領域ができあがった、という研究もあります。

脳の運動領域と運動スキルの組みあがり方の関係は、もう少し探る必要があるように思います。

ただ、脳に損傷のない、健常者の方はパブロフ型よりもベルンシュタインの考え方の方が正しいと思われます。

運動スキルが向上するには、単純な手を挙げる、足を上げるという動作を、動作を完成させるための時間の流れにそって『組み立てる』必要があります。

再生医療で行われているのは、単純動作の手を挙げる経路を再生させる、などのものだと思われます。

 私たちは次のような事実にもまた直面しています。脳は、あるものごとをほぽ一瞬のうちに考えたり記憶したりすることができるにもかかわらず、運動スキルを発達させるためには長いトレーニング期開が必要となります。しかしながらこれは矛盾ではありません。もしスキルが、痕跡を脳へと(練習をはじめた日から最後の日まで)ひたすら刷り込んでいくことによって発達するのであれば、どうしてそんなにばかばかしいほど長くかかるのか理解しがたいです。だが私たちは、スキルが神経系によって能動的に組み立てられることを知っており、この組み立てのプロセスは、設計図を描いたり、敷地を用意したり、基礎工事をしたり、壁のレンガを積んだりといった、家や工場を建てるときの段階に似たいくつかの連続する段階があり、それぞれに時開かかかることを知っています。

 運動スキルを組み立てる際の段階をすべて説明する前に、第II章で述べた基本的な事実についてもう一度十分に注意深く考えてみましょう。

 私たちの効果器は、膨大な数の冗長な自由度をもっています。このため、筋への運動インパルスは、それ自体どれだけ正確なものであったとしても、意志に対応した正確な動作を保証しえません。筋は弾性をもつため、硬い棒とは追って注意深く正確に力を伝えることができません。長い体肢は可動範囲がきわめて広く、さらに私たちは、さまざまな方向から加わる外力に直面しています。このため、ある筋に指令を送ったとしても、体肢が実際どのように動くのか脳は前もって知ることができないという状況が生じます。すでに第II章でみたように、体肢を制御可能にする方法は1つしかありません。つまり、動作がはじまった瞬間から、脳が継続的に注意深く感覚器からの報告にもとづいて動作を監視し、その場に応じた調整をしながら動作を操る必要があるということです。また、すべての感覚器が例外なく、器官の固有感覚機能と呼ばれるこのような付加的な役割を果たしていることもすでに述べました。

 外部の条件は時々刻々と変化しているため、動作は感覚調整を土台としてはじめて制御可能となります。したがって、同じ動作を繰り返すときには、脳から筋へ異なる運動インパルスが下行していることになります。

 トレーニングを積んだ運動選手のランニングフォームは、いつ見ても同種のコインの絵柄のように一緒です。ただし、同じフォームになるのは、脳が筋へまったく同一の運動インパルスを届ける能力をもっているからではなく、感覚調整が間違いなく働いているからに他なりません。さらにいえば、筋が10回まったく同一の運動インパルスを続けて受け取ったとすると、最高にうまくいった場合でさえ、ランニングとは似ても似つかぬばらばらでみっともない10歩のステップが刻まれるだけです。最悪の場合、走者はよろめき、二歩めには転んでしまうでしょう。走路が傾いていたり滑りやすくなっているときには予期せぬ外力が加わりますが、このときには迅速に外力に対する補償をしなければなりません。そんなとき、脳に適応力がなければ、ひたすらむやみに同一の指令を繰り返すばかりです。

同じ力で同じ角度で同じ速さで足を動かせ、と中枢の脳が命令しても、小石を踏んでしまった時やすべりやすい路面に足を踏み入れた時の力のかかり方が変わります。

不慮の力が働いた場合は、感覚の調整によりすばやく体勢を立て直すことが可能です。

 したがって、これが最も重要な特徴ですが、非常に単純で単調な動作に含まれる運動スキルであっても、「運動の公式」や「運動の決まり文句」であろうはずがありません。これは、運動スキルと条件反射が同じものだと思っている人たちを含めて、大勢の人々に誤解されてきたことです。したがって、運動スキルを、脳の運動領野のどこかに存在する刻印や痕跡だと考えるのは誤りなのです。

 一方、感覚調整を引き受ける脳の感覚野も、変わりばえしない調整の決まり文句を作り置きしたりはしません。外力や外乱は変化しやすいので、これらの影響を反映する調整も不変ではありえません。最後に、スキルに含まれる動作もやはり、適応的な変動を予備としてもっておく必要があり、この予備分はレベルが高くなるにつれて増えていくはずです。このため、脳の感覚系は、いつも同じ決まり文句ではなく、特別で、特定の操作性を蓄積し、貯蔵する必要があります。脳の感覚系による学習が徐々に進むと、動作のプロセスを反映する知覚と感覚の言葉を聞くなり、調整のために筋へ送るべき運動インパルスの言葉へと即座に通訳するスキルが身についてきます。このような、感覚の言語から調整の言語への翻訳を神経インパルスの通訳と呼ぶことにしましょう。

 したがって運動スキルは、運動の公式ではなく、どこかの運動中枢に刻み込まれた筋力の発揮に関する公式でももちろんありません。運動スキルは、何らかのタイプの運動課題を解決する能力です。ここに至って、神経系がスキルを発達させる際にどれだけたくさんの仕事を抱え込むことになるか、実際に帳尻を合わせたり考慮したりしなければならないずれや、変動や、特例がどれだけ多いかはっきりしました。いつの日か直接の外科手術によって、小さなピンセットで神経を掘り進み、小さなブラシで中を磨き上げれば、脳の神経路がきれいに「踏み均されて」何でもできるようになると期待している人もいるでしょうが、ここでそんなことを言うつもりはありません。学習された動作を実際に何度も繰り返し行う必要があるのは、感覚調整の土台となるすべての感覚を実際に経験する必要があるからです。スキルは、脳の感覚野がさまざまなずれや変更すべてに慣れ、将来のあらゆる通訳のための「語彙」を結合させるために、何度も繰り返す必要があるのです。当然ながら、最も実用的で正しいトレーニングは、最小限の努力でさまざまな種類のよく計画された感覚を経験し、これらすべての感覚を、意味を理解しつつ吸収し記憶する上で最適な条件を創り出すように組織化されるでしょう。

いきなり目標となる動作を行うよりも、『最小限の努力でさまざまな種類のよく計画された感覚を経験し、これらすべての感覚を、意味を理解しつつ吸収し記憶する上で最適な条件を創り出すように組織化された』ものが、最も実用的で正しいトレーニングである、ということになります。

この記事のまとめ
◆人間の脳の処理速度は電気や光の現象よりもずっと遅いが、現代のデータからいえば、人間の神経系は非常に高速な生物器官である。このような速さと、神経系が一つの新たな結合路を「踏み均す」のに何カ月もかかるという考えとは共存できない。このきわめて高速な装置を、写真を写すのに耐え難いほど長く露出時間を要する感度の低いフィルムにたとえるべきではない。
◆脳は、あるものごとをほぽ一瞬のうちに考えたり記憶したりすることができるにもかかわらず、運動スキルを発達させるためには長いトレーニング期開が必要となる。スキルが神経系によって能動的に組み立てられることを知っており、この組み立てのプロセスは、設計図を描いたり、敷地を用意したり、基礎工事をしたり、壁のレンガを積んだりといった、家や工場を建てるときの段階に似たいくつかの連続する段階があり、それぞれに時開かかかる。
◆私たちの効果器は、膨大な数の冗長な自由度をもっている。このため、筋への運動インパルスは、それ自体どれだけ正確なものであったとしても、意志に対応した正確な動作を保証しえない。筋は弾性をもつため、硬い棒とは追って注意深く正確に力を伝えることができない。長い体肢は可動範囲がきわめて広く、さらに私たちは、さまざまな方向から加わる外力に直面している。このため、ある筋に指令を送ったとしても、体肢が実際どのように動くのか脳は前もって知ることができないという状況が生じる。
◆体肢を制御可能にする方法は1つしかない。つまり、動作がはじまった瞬間から、脳が継続的に注意深く感覚器からの報告にもとづいて動作を監視し、その場に応じた調整をしながら動作を操る必要がある。また、すべての感覚器が例外なく、器官の固有感覚機能と呼ばれるこのような付加的な役割を果たしている。
◆外部の条件は時々刻々と変化しているため、動作は感覚調整を土台としてはじめて制御可能となる。したがって、同じ動作を繰り返すときには、脳から筋へ異なる運動インパルスが下行していることになる。
◆同じフォームになるのは、脳が筋へまったく同一の運動インパルスを届ける能力をもっているからではなく、感覚調整が間違いなく働いているからである。
◆予期せぬ外力が加わるが、このときには迅速に外力に対する補償をしなければならない。そんなとき、脳に適応力がなければ、ひたすらむやみに同一の指令を繰り返すばかりになる。
◆最も重要な特徴は、非常に単純で単調な動作に含まれる運動スキルであっても、「運動の公式」や「運動の決まり文句」ではない。運動スキルを、脳の運動前野のどこかに存在する刻印や痕跡だと考えるのは誤りである。
◆感覚調整を引き受ける脳の感覚野も、変わりばえしない調整の決まり文句を作り置きしたりはしない。外力や外乱は変化しやすいので、これらの影響を反映する調整も不変ではない。スキルに含まれる動作もやはり、適応的な変動を予備としてもっておく必要があり、この予備分はレベルが高くなるにつれて増えていくはずである。脳の感覚系は、いつも同じ決まり文句ではなく、特別で、特定の操作性を蓄積し、貯蔵する必要がある。脳の感覚系による学習が徐々に進むと、動作のプロセスを反映する知覚と感覚の言葉を聞くなり、調整のために筋へ送るべき運動インパルスの言葉へと即座に通訳するスキルが身についてくる。感覚の言語から調整の言語への翻訳を神経インパルスの通訳と呼ぶことにする。
運動スキルは、運動の公式ではなく、どこかの運動中枢に刻み込まれた筋力の発揮に関する公式でもない。運動スキルは、何らかのタイプの運動課題を解決する能力である。
◆学習された動作を実際に何度も繰り返し行う必要があるのは、感覚調整の土台となるすべての感覚を実際に経験する必要があるからである。スキルは、脳の感覚野がさまざまなずれや変更すべてに慣れ、将来のあらゆる通訳のための「語彙」を結合させるために、何度も繰り返す必要がある。
◆最も実用的で正しいトレーニングは、最小限の努力でさまざまな種類のよく計画された感覚を経験し、これらすべての感覚を、意味を理解しつつ吸収し記憶する上で最適な条件を創り出すように組織化される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルンシュタイン VI 練習と運動スキル(3)

練習可能性はどのようにして発現するか

 生活上要求されることが増え続けた結果、より発達した動物に典型的な、トレーニングによって能力がより一層向上する新たな脳構造の発達が自然に促されました。動作を構築するレベルが若いほど、より有意味で複雑な問題を解くことができ、より柔軟で、適応的で、「可塑性に富んで」おり、そのため、より練習可能性が高いです。

 この考えはまた、動物の比較生理学によっても支持されます。この学問は、本書全体にわたって発達の古代史を繕く鍵として役立っている。平滑筋しかない原始の軟体動物では、トレーニングなど論外であった。クラゲや、カタツムリや、ポリプ[ヒドロ虫類で口と触手をもつ固着性の個体]に何かを教えるなんてばかげています。ずっと高度に発達した節足動物(昆虫、クモ、ザリガニ)でさえ、まったくトレーニング不可能で、きわめて愚かです。興味深いことに、地球上には百万種類以上もの昆虫がいる(その数はその他の種すべてを足し合わせたよりもずっと多い)が、人間が利用できたのはわずかに二種類、ミツバチとカイコだけです(残念なことに、人間はその間、節足動物を含むもっとずっと多くの種に利用され続けてきました)。

 昆虫に条件反射を出現させることは、たとえ最も単純な形式であっても不可能です。昆虫は環境の変化を受容できず、練習可能なレベルに達していません。

カイコもハチも実際は野生のままだ、と述べられています。

また、サーカスのノミの見世物も、ジャンプできないように足の筋肉を退化させて、引きずることしかできなくしただけです。

練習で何かができるようになるのは、脊椎動物からです。

 脊椎動物では、発達の階層における位置と、環境の変化を受容する能力や練習可能性とのあいだには直接的な関係があります。魚と両生類は、最高次の脳構造が淡蒼球であり、うんざりするほどゆっくりとであれば条件反射を発達させることができますが、トレーニングの余地はありません。爬虫類についても事情はほとんど同じです。すでに第III章で述べたが、環境の変化を受容する能力がなかったことがおそらく主な原因となって、爬虫類は大昔に滅亡の一途をたどりました。鳥類は、線条体に加えて数多くの感覚皮貫領野をもつため、さまざまな側面において、飼い慣らしたり、トレーニングしたり、練習したりすることができます。鳥類では、条件反射が容易に発達し、安定します。

 ただし、鳥類には共通する一つの弱点があります。最も高度に発達した鳥ですら例外ではないのですが、鳥類は不意に行ったことのない動作を組み合わせることが不得意なのです。とはいえ、トレーニングしてもまったく意味のない冷血動物に比べれば、鳥類はわずかずつではあるが学習が進み、持続的で単調なスキルを獲得することができます。ただし、この能力には限界があります。

鳥はオウムなら言葉を真似て返すことができるようになります。

しかし、当然ですが人間のように言葉を操れるわけではありません。

 次の発達段階まで到達できたのは、哺乳類だけでした。

 ひとくちに哺乳類といっても、きわめて愚かで才能のない動物からサルのように天分に恵まれた動物まで、中身は多種多様です。哺乳類の大脳皮質がより発達し、分化すると、高次の運動構築レベルに適しか制御中枢が形成されるようになり、動物の練習可能性が高くなって、予期せぬ状況に遭遇しても機転の利いた運動でその場を切り抜けられるようになります。

 したがって、練習可能性は進化の歴史のなかでも比較的新しく出現したといえます。要するに、練習可能性の年齢は最古の大脳皮質と同じです。原始的な動物の世界には練習可能性など存在しませんでした。その頃の動物はみな、ときに長い一生を送っていましたが、生まれてから死ぬまで何一つ学習しなかったのです。

恐竜には文字も文化も生まれませんでした。

彼らはただ生きて、学習して積み重ねるという行為がなかったからです。

 これから述べる結論は、いささか予想外かもしれません。しかし、十分に深く考えてみると、今まで述べたことから自然に導かれるものです。すなわち巧みさは、進化の歴史の中では、練習可能性の妹にあたります。巧みさは練習可能性よりも後に生まれました。確かに、予期せぬ新たな状況ですばやく解決策をみつけたり、新たな運動の組み合わせをすばやく創り出す能力は、月並みで時間のかかる練習可能性が現れた後に出現し、より高度に発達した脳構造が必要となります。事実この能力は、巧みさの土台となります。巧みさが練習可能性より若いという結論は、観察によって直接裏づけられます。不器用なカニやロブスターは論外としても、すばやく、敏捷で、羽まで生えているバックでさえ、やはり不器用に悩まされています。裏返しになったカニの動作はいかにも不器用です。バッタは、すばやく、遠くまで一跳びできるので、優雅で巧みさを備えた動物であるかのような印象を与えます。

 巧みさとすばやさとを混同すべきでないことはすでに述べました。後者のすばやい動作を行う能力は、小さな魚や、トカゲや、ヘビなど多くの下等脊椎動物で数多く見いだすことができます。しかしながら、ここで述べた高い基準に見合った真の巧みさは高等な鳥類からしか見つからず、最高次まで到達するのは哺乳類だけです。

 これらの観察によって、練習可能性と生命力とを結びつける立場に対するもう一つの強い反論が可能になります。確かに私たちは、生命力と呼ばれるもののはっきりとした例を知っています。失ったものの代わりに、新たな手足や新たな尻尾を生やす能力がそれです。これらは、低い発達段階にある動物で生じます。ヒトデの腕部は切れてもすぐにまた生えてくるが、トカゲやカエルの脚は切れたらもとには戻りません。トカゲは新しい尻尾が生えるが、フォックステリア犬ではそうはいきません。練習可能性は逆に、最近の現象であり、下等な動物から高等な動物になるにしたがって増大します。

 さてそれでは、人間においてもやはり、運動を構築する原始的なレベルから現代のレベルヘと段階を経るにしたがって同じように練習可能性が増大していくのでしょうか。このことをはっきりさせておくことは、非常に重要です。第IV章や第V章ですでにみたように、人間は脊椎動物に存在しているすべてのレベルを、多少の修正や変更を加えつつ保持しています。魚やカエルには、実質的に練習可能性はありません。このことは、魚やカエルでは高次の神経核に相当する人間の脳部位が担当する筋-関節レベル(B)にも練習可能性がないことを意味するのでしょうか。線条体システムは、低次の空間レベルC1が担当する人間の動作、つまり歩行や、運動競技あるいは体操の動作の多くを制御します。このことは、線条体が高次の制御を行う鳥類のように、人間でもこれらの動作にあまり練習可能性がないことを意味するのでしょうか。

 この結論はおそらく誤りでしょう。人間の高次レベルは、より柔軟性が高く練習による変化が大きいです。したがって、巧みさを発揮するためのよりよい土台となるのは間違いありません。この最後の点は、以前さまざまなレベルの分析をしたときに明らかになりました。教育の実践家にとって重要なのは、動作を正確に分析し、どのレベルに属しているのかはっきりさせることだということは、ここで分かります。そのような分析ができれば、ある動作にどの程度練習可能性があるのか、どれだけ発達が難しいのか、どのくらいの時間をかけて発達するのかすぐ見当がつきます。

 人間の練習可能性は階層レベルによって異なってはいますか、最も低いレベルであっても下等脊椎動物よりはずっと練習可能性が高いです。このことは、以下の事実に直接関係しています。つまり人間においては、低次レベルがみな、高度に発運した運動皮質によって制御されています。動作の発達と形成に運動皮質が参加していることは、重要な事実です。皮質が行為のレベルで必要な背景調整を指令する方法や、この目的のためにいわゆる運動前野を利用する方法はすでに説明したとおりです。空間のレベルは、間違いなく、低次のレベルにちょうどよい動機づけと激励を与える役割も果たします。大脳皮質は、より原始的な低次レベルと通話する適切な言語を見つけだしており、この言語を使って人間におけるそれらのレベルの練習可能性を劇的に引き上げているのです。

私たちは、レベルAやBといった、低次レベルを、高次レベルでの制御によって、練習可能性を持っている、というのがベルンシュタインの意見です。

錐体路である皮質脊髄路はすべての筋のα運動ニューロンに結合しています。

問題は、どう練習していくか、です。

これは、一般的な「言語」ではなく、その脳のレベルにあった「言語」で練習することです。

機械語とか言いますが、機械は普通の人間が理解できない言葉で命令を受け、実行します。

この記事のまとめ

◆生活上要求されることが増え続けた結果、より発達した動物に典型的な、トレーニングによって能力がより一層向上する新たな脳構造の発達が自然に促された。
◆動作を構築するレベルが若いほど、より有意味で複雑な問題を解くことができ、より柔軟で、適応的で、「可塑性に富んで」おり、そのため、より練習可能性が高い。
◆再生などの生命力は、低い発達段階にある動物では高いが、練習可能性は逆に、最近の現象であり、下等な動物から高等な動物になるにしたがって増大する。
◆人間は脊椎動物に存在しているすべてのレベルを、多少の修正や変更を加えつつ保持している。
◆人間の高次レベルは、より柔軟性が高く練習による変化が大きい。
◆教育の実践家にとって重要なのは、動作を正確に分析し、どのレベルに属しているのかはっきりさせることである。そのような分析ができれば、ある動作にどの程度練習可能性があるのか、どれだけ発達が難しいのか、どのくらいの時間をかけて発達するのかすぐ見当がつく。
◆人間の練習可能性は階層レベルによって異なってはいるか、最も低いレベルであっても下等脊椎動物よりはずっと練習可能性が高い。人間においては、低次レベルがみな、高度に発運した運動皮質によって制御されている。動作の発達と形成に運動皮質が参加している。空間のレベルは、間違いなく、低次のレベルにちょうどよい動機づけと激励を与える役割も果たす。大脳皮質は、より原始的な信次レベルと通話する適切な言語を見つけだしており、この言語を使って人間におけるそれらのレベルの練習可能性を劇的に引き上げている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルンシュタイン VI 練習と運動スキル(2)

次は、ベルンシュタインのパブロフ批判です。

有名なイヌのよだれと条件反射の実験ですね。

 このような見方は、一九世紀になって活発に神経生理学的研究が行われるようになると劇的に変化しました。脳の役割が次々に明かされ、動作の制御中枢と運動の記憶は脳内に宿ることが発見されました。このため、身体器官を用いた練習によって脳が変化することや、運動スキルが、腕や、脚や、背中ではなく、もっと上にある脳の奥深くに刻み込まれた痕跡であることが明らかになりました。

 これらの痕跡はいったい何なのでしょうか。またそれらはどのようにして脳の中に形成されるのでしょうか。これらの質問に対する答えは、あるアナロジーの助けを借りて探し求められました。しかしこのアナロジーは、当初とても役立つと考えられていたのですが、後になってまったくの見当はずれであることが判明しました。それにも関わらず、生理学者や教師、医者の心を教十年間も惹きつけてきました。すべてのはじまりはイヌでした。

 ご承知のとおり、口の中に食べ物を入れると唾液が出ます。食べ物に水気がないときには、特にたくさん出ます。食べ物は、口内の粘膜を刺激します。この刺激が感覚神経によって唾液脳中枢とでもいうべき部位に伝えられると、脳中枢は規則正しく刺激に反応して、人力された神経信号に応じた唾液腺に信号を送ります。この現象は、口の中に唾液腺のあるすべての動物で観察され、その再現性たるやまるで機械のようであり、いつでも、どこでも、小さな仔グマでさえも同じように生じます。このような生まれつきの機構は反射と呼ばれています。

 ロシアの生理学者I・P・パヴロフは、消化の研究でノーベル賞を受賞した著名な研究者ですが、その後彼は以下のような事実を発見しました。腹を空かせたイヌが、毎日毎日繰り返し餌をもらう三〇秒前にベルや口笛の音を聞いたり、ある色の光を見たり、あるいは別の刺激を受け取ると、徐々に唾液を分泌するようになります。ただし、餌をもらったときでも、餌を見たときでもなく、刺激となる信号が提示されたときにです。この方法によって、どんな信号でも唾液反射を誘発できるようになることが明らかになりました。数百もの組み合わせで信号と餌を提示した結果、身体の一部をつついたり、引っ掻いたり、光を点滅させたり、咳をしたり、虫の鳴き声を聞かせたり、手ばたきをしたり、とにかく何であってもイヌに唾液を流させることができました。このような効果をもちうるのは、トレーニングに用いた刺激だけであることは確かでした。つまり、食べ物による口への刺激の代用になるのは、トレーニングした刺激だけでした。腹を空かせたイヌでも、はじめての信号に対しては唾液を流しません。通りすがりの野良イヌを1〇〇〇匹捕まえてきて虫の鳴き声を聞かせても、あるいは光を点滅させても、せいぜい耳をピクっと動かす程度が関の山で、唾液を流したりするイヌなどいません。さらに、実験室で飼っているボビックは虫の声に、ジャックは光の点滅に、ミルカとトピックは研究者の尽きぬ想像力から生まれたまた別の条件刺激に唾液を流しはじめました。

 それぞれのケースで、人工的な方法によって新たな反射が誕生したことは明らかです。唾液反射は一般的な生得的反射ですが、これはそうではありません。この反射は、イヌの私的経験による強化を反映したものです。I・P・パヴロフはこの人工的な反射を「条件づけられた」反射と呼びました。これは、生得的な無条件反射と対比させた呼び名です。

 新たな反射のための神経回路は、脳の中でどのように発達するのでしょうか。この問題に対して、以下のような説明か提出されました。周知のとおり(読者にはすでにお話しした)、聴覚や、視覚や、触覚は、脳皮質に広大な領野をもっており、対応する感覚器からの神経路がそれらの部位に到達します。ここで次のような仮定をしてみましょう。それぞれの感覚、感覚器から脳へと伝えられたそれぞれの感覚印象に対して、たとえば神経細胞のような特定のごく小さい「中枢」があって、そこにそれぞれの感覚印象が到達し、ちょうどミツバチの巣の区画ごとに入る蜜のように、次々に隣どうしの位置を占めます。虫の声や光がはじめにイヌの脳にたどり着くと、それらの感覚は空いている細胞を新たに見つけ、その場所を占めます。ここでもう一つ仮定しましょう。これらの細胞と唾波線とのあいだには神経結合があるが、なんらかの理由で神経信号を伝達できない状態にあると考えるのです。特別な意味をもたない印象と餌とをパヴロフが行ったように繰り返し結びつけると、二つの中枢の間の経路が「踏み均(なら)され」て徐々にインパルスが伝わるようになります。どうしても必要な古いゴムのチューブを見つけたとしましょう。縫い針を取り出して、中の埃やゴミのかけらを掻き出します。するとどうでしょう。針がチューブの中を抜け、水が少しずつ流れ出すと、ゴミを洗い流してチューブの中はさらにきれいになり、ついには嬉しい水しぶきを浴びることができるようになります。神経路にインパルスが通る様子を生理学者が想像すると、ほぼこのようなシナリオになります。イヌの実験によって、神経路を踏み均すことは大変な作業で、ゆっくりとしか進行しないことが示され、新たな経験を吸収したり、新たなスキルを獲得するために長く困難な練習が必要になるという事実の説明が与えられました。

何かを練習していた時に、ある時を境に上手くなった、という経験はないでしょうか。

その現象をパブロフ型に考えると、やっと神経回路が大脳皮質で繋がった、という考え方になります。

でも、それは間違っている、というのがベルンシュタインの考え方です。

 動物における条件反射(はじめに唾液反射、後に運動反射)の発見は、実際、生理学の分野における大きな成功であり、科学的思考を大いに喚起しました。この発見により、生命力説に最後の一撃を食らわせることができました。きわめて広い意味で、説明すべき事実はいくつもありました。脳における神経路の踏み均しという考えは、学習し、練習し、スキルを獲得し、さらには一般的にあらゆるタイプの個人的経験を蓄積する能力の説明に用いられるようになりました。

 しかしながら、人間の運動スキルとイヌの条件反射とを同等に扱うことは、重大な誤りを導く危険があり、これにしたがった医学的な治療は生命力説の教えに則るのと同じくらい有害になります。そして幸運なことに、この勢いはあっという間に衰えました。

 第一に、すでに示したように、自然の条件下で経験を獲得すること、さらにいえばそもそも外界の印象を吸収することは能動的なプロセスであって、受動的なプロセスではありません。生き物は、毛虫やカタツムリから人間に至るまで、印象の流れに対して受動的に身を委ねているわけではありません。印象は掴みとるものです。このプロセスは、イヌが実験室の実験台に縛りつけられて、見たり間いたりするものに反応できなくされている状況と比較することなどできません。

 この事実に加えて、別の重大な疑問が湧き上がりました。この新しい脳内の結合が困難な作業であり、ゆっくりとしか進行しないという疑問です。条件反射が形成されるまでには、まるまる数カ月もかかります。現実の日常生活では、イヌでも人間でも、何十回も繰り返してやっとある印象をおぼえ、記憶に固定するわけではありません。新しい印象に慣れるのに教カ月もかかるような動物が、生存競争に勝ち残れるわけがありません。そんなぼんやりした種は、厳しい現実に立ち向かうことなどできず、滅亡の一途をたどることになるでしょう。

まず第1点は、自然の条件下で経験を獲得すること、さらにいえばそもそも外界の印象を吸収することは能動的なプロセスであって、受動的なプロセスではないので、実験室で縛り付けられて行うことと生活していく場面では環境が違う、ということです。

生活していくにはさまざまなリスクが起こります。

危険が迫っているのに、それから身を守ることを新しく覚えていくのに数ヶ月かかるのでは、簡単に死んでしまう、ということになります。

 経験上よく分かるはずですが、サルはいうにおよばず、イヌやクマはさまざまな出来事をたった一度で理解し、おぼえます。人間では、文字どおり字習しなければならないような場合にのみ繰り返しが必要になります。意味を把握する課題であれば、繰り返す必要などありません。自然の条件下では一度の提示で済むのに、条件反射の実験では何度も繰り返し提示しなければなりません。これは大きな違いです。この基本的な違いは、主として環境によるところが大きいです。自然の、通常の生活では、動物は自分にとって重要ではない印象を無視し、命に関わるような重要な印象を能動的に掴みとります。実験室内の環境では、動物が能動的に関与する余地のないまま否応なく出来事が起こり続けます。

 運動スキルは発達に時間がかかります。結果だけみれば、それは条件反射と似たようなものであるかのような印象を受けます。しかしながら、これからみていくように運動スキルはどれも複雑であり、この複雑さのために、運動スキルが発達する際には連続するいくつもの段階を経ます。これらの段階のいくつかを観察するのは簡単です。たとえば、自転車をこぎながらバランスをとったり、水に浮いたりする能力は、段階を追って学習されます。

 この誤ったアナロジーが原因となって、実質的な損害が生じることは明らかです。はじめに、生き生きとした活動的な興味とは無縁の、完全に受動的な学習プロセスを信じてしまうと、機械的な受動的学習の考えが直接浮かんできます。たしかに、実験室の実験台に括りつけられている寝ぼけ眼のイヌは、まったく何の興味も示すことなしに条件反射が発現するようになります。思慮深い教師も賢い学生も、そんな退屈で気の連まない繰り返しがいかに非効率的であるかを知っています。

運動スキルの上昇には、段階というものがあります。

どこをどうすればよいのか、というのがいきなり完全な動作を真似しようとすると分からない、ということが起きます。

環境から情報を得る場合には、自分で重要な情報を選んでいます。

身体も脳からみれば環境でした。

いきなり完全な動作を真似すると、スキルアップのそれぞれの段階で、重要な情報が分からないのです。

完全な動作を真似ることというのは、情報が拡散しすぎてできたとしても非常に効率の悪い、遠回りなものになります。

話はすこしそれますが、受け身で情報が与えられるだけの学習というのは、とても退屈なものです。

かといって、ゆとり教育は失敗してしまいました。

問題は将来何になりたいのか、それを行うには何が必要なのか、必要なものを理解するためにはどんな勉強が必要なのか、というのが子どもの頃には非常に見えにくいものです。

というわけで、なんにでも使える文字や計算、簡単な理科の実験や音楽、体育、といったものを勉強します。

小さい頃に小学校でするものって何にでも使えるので、ある程度詰め込み式でもかまわないのでは、と思いますが。

職業というのはトレンドが変わります。

子どもの頃に何になりたい、というのを決めてしまうのもリスクはあります。

まぁ健康が一番です。

 次に、スキルが洗練されていくことと、脳の中で神経路が踏み均されることを同一視するのは大きな誤りです。この方法は、きわめて効率が悪いです。たとえば、棒高跳びのスキルを身につける場合でも、神経路を塞ぐいくつかの分子を退かすために、膨大な力を費やして何度も何度も繰り返し繰習しなければならないことになります。練習において繰り返しが重要なのは事実ですが、これには別の理由があります。動作や行為の繰り返しは、何度も(より良く)運動課題を解決し、解決に至る最良の方法を発見するために必要なのです。課題を何度も解決することが必要なもう1つの理由は、自然の条件下では外的条件が毎回異なり、動作のプロセスもまた決して完全に再現されることはありえないからである。その結果、課題のさまざまな変化に適した経験を習得し、とりわけ動作の感覚調整を行う基盤となるあらゆる印象をうまく使えるようにする必要があります。この経験は、たとえわずかであれ後々課題や外的条件が変化しても、混乱することなくすばやく適応するために必要となります。

1 条件反射は、脳の中で新たな神経路が成長することによって発現するわけではない。というのは、生まれた後には中枢神経系の神経繊維は新たに成長しないことがはっきりと分かっているからである。

環境というのは実験室で操作しない限り、変化するものです。

変化に対応するために、人間の脳は柔軟性を獲得しました。

この記事のまとめ

◆自然の条件下で経験を獲得すること、さらにいえばそもそも外界の印象を吸収することは能動的なプロセスであって、受動的なプロセスではない。
◆条件反射=新しい脳内の結合が困難な作業であり、ゆっくりとしか進行せず、形成されるまでには、まるまる数カ月もかかる。自然の条件下では一度の提示で済むのに、条件反射の実験では何度も繰り返し提示しなければならない。
◆自然の、通常の生活では、動物は自分にとって重要ではない印象を無視し、命に関わるような重要な印象を能動的に掴みとる。
◆運動スキルはどれも複雑であり、この複雑さのために、運動スキルが発達する際には連続するいくつもの段階を経る。
◆練習において繰り返しが重要なのは事実であるが、動作や行為の繰り返しは、何度も(より良く)運動課題を解決し、解決に至る最良の方法を発見するために必要である。自然の条件下では外的条件が毎回異なり、動作のプロセスもまた決して完全に再現されることはありえない。
◆課題のさまざまな変化に適した経験を習得し、とりわけ動作の感覚調整を行う基盤となるあらゆる印象をうまく使えるようにする必要がある。この経験は、たとえわずかであれ後々課題や外的条件が変化しても、混乱することなくすばやく適応するために必要となる。
◆条件反射は、脳の中で新たな神経路が成長することによって発現するわけではない。というのは、生まれた後には中枢神経系の神経繊維は新たに成長しないことがはっきりと分かっているからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルンシュタイン VI 練習と運動スキル(1)

このお話は、ベルンシュタインの有名なパブロフ批判のお話です。

きっと、パブロフ的な考えのもとに運動の練習を行っていた人っているのではないでしょうか。

まず出てくるのが、「生命力」「練習可能性」という概念です。

第Ⅵ章 練習と運動スキル

 運動スキルについての誤った考え

 古来より、人間(および類人猿の一部)だけがもつ、他の種には決してみられない独自の性質は賢人たちの興味を惹きつけてきました。機械や道具は、使い続けていると消耗します。つまり、すり減ってガタガタになり、次第に性能が衰えてしまいます。究極の機械とは、いつまでも修理の必要がない機械です。「人間という機械」についていえば、事情がまったく異なります。ある活動の経験を長く積めば、その分だけ上達します。生物は仕事をしたからといって消耗するわけではありません。逆に、より強く、すばやくなり、持久力が向上し、より器用に、巧みになります。とりわけ、繰り返し行った活動についてはこのことがよくあてはまります。このような生物の特徴は、練習可能性と呼ばれています。

これは、人工関節などで問題になっていて、人工関節部分だけは磨耗しても元に戻れません。

若い頃に入れ替えたら、何十年かして再度取り替える、ということをする必要があります。

だから、骨の病気では痛みがなくなるからといって、人工関節を安易に導入すべきではないのではないか、という考え方があります。

 ある現象に気づいたりそれを実際に利用したりすることよりも、その現象を説明することのほうが難しいというのは、よくあることです。練習可能性も、誰もが知っているものの、いざ説明するとなると大変です。動物にもこの能力があることが分かると、人々は動物を飼い慣らすようになりました。トレーニングと練習によってスキルを身につけさせ、役立てようとしたのです。しかしながら、生物と機械の基本的な違いは要するに一体何であるのかという点については、容易に発見できませんでした。

ロシアの伝説的なバレエダンサー、ニジンスキーの言葉にこんなのがあるそうです。

「もし私が運動を説明できたとしたら、もうダンスをする必要はないでしょう」

 今はもはや無くなりつつありますが、古くから外科医が強く信じていた迷信があります。「生きものと、そうでない(死んだ)ものの違いは、いわゆる「生命力」があるかないかだ」という考えです。「生命力」という概念を導入しなければ説明のつかない現象は数多くありました。生物は至るところで安全とよりよい生活を目指して精力的に奮闘しています。傷口は閉じ、癒えます。骨は折れてもひとりでにつながってしまいます。また、下等脊椎動物は自らの「修復」能力をもっています。トカゲにとっては切れた尻尾を再生することなど訳もないですし、ヒトデの脚も切れてなくなればまた新しく生えてきます。

 説明できない出来事があれば、すぐに生命力という用語がもち出されてきたため、科学者はもう一つ、練習による学習という現象の説明にも生命力がもち出せそうだと考えました。そのときの状況は、こんなふうでした。労働自体は、機械を消耗させるように生物も消耗させます。しかし生物では、消耗すると生命力が奮闘しはじめ、最も疲労した部分を真っ先に補強します。ちょうど指揮官が敵に最も激しく攻撃された部分を強化するようなものです。仕事をすれば必ずどこかが摩耗するが、幸運なことに、磨り減った部分は生命力が無料で修復してくれます。そんな部合のよい考えに注目したのは、労働を軽蔑し、大自然について悠然と思索にふけるだけのひまをもちあわせた古代の奴隷所有者だけです。

ホメオスタシスは体内を一定の環境に保とうとするシステムです。

生命は生まれてから子孫を残して、そして死ななければ進化の可能性は閉ざされてしまいます。

このあたりのテーマは横道にそれますので、置いておきます。

 この見方にしたがえば、最も練習可能性の高い器官は、仕事中に最も負担のかかる器官ということになります。この説を部分的に支持する証拠は、直に観察できます。手のひらの薄い皮膚には、摩耗を防ぐための肉刺(まめ)ができます。筋では負荷の種類に応じて、明らかに成長のパターンが異なります。走る人は足の筋が強くなり、鍛冶屋は腕の筋が強くなり、運び屋は全身の筋が強化されます。しかし、ここで私たちは最初の問題に突き当たります。

 仮に、練習による学習が、腱や、靭帯や、筋の成長に限定されるならば、たとえば右腕による練習の結果、この腕を使った仕事がみな上達するはずです。しかし実際には、練習によって学習されるのは練習したのと同じような二、三の活動に限られ、その桂すべての活動に閉する腕の適性レベルは以前となんら変わりありません。円盤投げを長いあいだ練習した選手は、腕が、槍や、ボールや、ハンマーや、砲丸をよりよく投げられるようになっていることに気づくでしょうが、このような練習をしたからといってのこぎりを引いたりウインチを巻いたりする能力は何も変わりません。練習の結果、生命力によって耐久性と巧みさを与えられたはずの同じ関節、同じ筋、同じ靭帯が、練習していない無関係な活動では一向に性能が向上していないことをどうやって説明するのでしょうか。

筋肉が太くなるのは、運動によって損傷を受けた部分が再生される時に、前よりも多く再生するからです。

筋肉が太く、強くなるからといって、さらに繊細さな制御まで筋肉に備わるかというと、そんなことはありません。

筋肉が損傷して回復して太くなるのと、運動が正確に行うようになる現象とはまた別問題です。

 生命力という考えにまつわる迷信は、医学の世界でも、また実際に練習をしたり練習可能性を引きだそうとするときにも有害です。まず第一に、この説からすれば、組織が成長し、回復し、癒着結合する能力は明らかに組織の柔軟な子供のときに最大であると考えられます。そのため、最も挑戦的な動作は子供のころに練習をはじめる必要があることになります。そんなことをすれば、無惨にも子供の身体には障害が生じ、サーカスの観客を喜ばせるための「ゴムのようにグニャグュャの子供」が出来上がることになります。

子どもの時は傷の治りも早いですね。

だからといって、ただ繰り返して練習するだけでは本当のスキルは身につきません。

最も挑戦的な動作とは、すなわちレベルDのグループ5の最後のグループです。

子どもの頃から無理やりに取り組むものではない、ということになるのかもしれません。

 第二に、運動の結果は、腕自体や腕の筋や靭帯に宿ると仮定されているため、また別の考えが浮かびます。外科手術によって筋や靭帯を直接矯正し、その機能を向上させることができるのではないかという考えです。たとえば、掌にある多くの小さな骨と関節は、軟部組織の中に入り込んで靭帯によってきつく覆われています。もともとがこのような構造になっているため、一見したところ手は十分な働きができないように思えます。巷の医者たちは、自然のしでかしたこの誤りを直すことなどわけはないと信じていました。それも、ウォーミングアップによって筋を解放するのではなく、適切な外科手術で可能だと考えていました。たとえば、ピアノ演奏家たちは、薬指と中指の腱をつなぐ靭帯に大きな問題を抱えていることかあり、「矯正」手術を受けることがあります。これらの指を分離する手術をすると、きまって悲惨で取り返しのつかない結果になります。音楽家は悲しみに満ちた目でだめになってしまった手を見つめ、生意気な非難に対して自然が復讐したのではないかと考えます。

考え方の誤りが、取り返しのつかない結果を招いてしまう、ということはあります。

間違ったことは経験として積み重ねられる必要があります。

でなければ、間違って何かを失った意味がないからです。

私の病気の場合は、強い筋肉トレーニングというのは誤りです。

もっといえば、強い筋の収縮はやってはいけません。

正常に生まれた人は、矯正手術ではなしに練習によって高い次元の運動を手に入れた方が無難です。

ただし、これからどう医学が進歩するのかは分かりません。

運動のスキルアップのためではなく、痛みを取り除くために受けたはずの手術が、運動パフォーマンスを大幅に引き上げた、ということも起こりえるかもしれません。

この記事のまとめ

◆練習可能性とは、より強く、すばやくなり、持久力が向上し、特に繰り返し行った活動は、より器用に、巧みになることである。
◆説明ができなかった生命の自己修復能力は、「生命力」として説明されてきた。
◆練習可能性と生命力の考え方では、仕事中に最も負担のかかる器官が、練習スキルが上達することになるが、そんなことは起こらない。

◆運動の結果は、腕自体や腕の筋の靭帯に宿るわけではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルンシュタイン V 動作構築のレベル(14)

次は子どもの運動がどう形成されていくか、という話です。

私の病気は先天性なので、子どもの頃からありました。

いまお子さんが同じ病気で、という方には何かの参考になるかもしれません。

子供の運動形成

 重要な点は、すでに述べたように、この(2歳)歳になるまでにすべての脳構造と神経伝導路は十分に成熟しきって、動作を構築するすべてのレベルの相互調整とそれらの能力の発達という手間のかかる仕事がはじまっているということです。

 ここで手短に、2歳から成熟の最終段階となる14、5歳までの子供の運動発達について述べておくことにしましょう。

 運動機能と呼ばれる運動の領域は、子供の成長に伴ってなめらかに上昇するような発達曲線を描きません。他の領域の発達にも見られるように、運動機能はしばしば停滞したり、急上昇したり、ときには一見低下することさえあります。このような変動は、思春期を目前にした年齢でとりわけ顕著になります。この時期、思春期を直前に控えた少年少女はふつう非常に不器用で、ぎこちなく、のろまになります。いろいろなものにぶつかったり、皿を割ったり、床にいろいろなものを落としたりし、靴底をすぐにすり減らしてしまいます。ただし、このあとすぐに見ていくことになるが、これらは要するに一時的な後退にすぎません。

 2歳の終わりから3歳にかけては、高次の運動系における最後の成熟が進行します。この年代になってはじめて、子供は数多くのレベルDに属する行為を首尾よくこなせるようになります。この歳は、子供が「高等なサル」を卒業して、サルには絶対にできないような動作をはじめて獲得する時期です。対象物を操作する行為の領域では、子供は、自分の身の回りの世話(服を脱ぐ、身体を洗う、スプーンで食事する)をおぼえはじめ、おもちゃで上手に遊んだり、積み木をしたり、砂でパイを作ったりし、鉛筆で何かを書きはじめます。この時期には、ちょうど今述べたような動作において手の左右差が観察できるようになり、右利きか左利きかがはっきりします。同時にまた、それ以前のような単にばらばらな単語をならべただけの発話ではなく、文章をきちんと正確に組み立てて話すことができるようになります。

3歳ごろに「高等なおさるさん」を卒業して、人間にしかできないことができるようになります。
一般に、2歳で2語文、3歳で3語文を話す、とかいいます。

 次の期間は3~7歳で、この時期に生じる主要な出来事は、利用できるあらゆるレベルの量的な強化と調整です。解剖学的には、生まれて3年も経てばすべてのレベルの準備体勢が整い、実質的に稼動しはじめます。これはすでに本章で見てきたことですが、高次の若いレベルはより複雑な構造をもつ動作を制御できますが、同時に前もって準備された背景調整を必要とします。動作を構築するレベルは、器にたとえることができるかもしれません。つまり、大きくなって容量が増えるほど、中身を満たすのに時間がかかります。

人間ができることというのは膨大な量になります。

3歳のころから、動作を習得するために器の中身をためていきます。

また、身体が成長しますので、できる動作も変わってきます。

 このため、人間のもつ動作構築のレベルすべてが利用できる場合でも、子供が実際に使うのは早く中身がいっぱいになる、よりやさしいレベルであることが多いです。これらのレベルはほとんどが雑体外路運動系のもので、移動運動や体操のような動作をつかさどる線条体のレベル、つまり低次の空間レベルC1以下にとどまっています。

 3~7歳の子供は、不器用な小熊のようなよちよち歩きとは対照的に、非常にすばしこく、活発になります。すばやく器用に走りまわり、ジャンプしたり登ったりできるようになります。リズム感覚も身につき、友だちの回すなわをとても得意げに跳びます。顔の表情もずっと深く豊かになり、何か話すときには活発に迷いなく身振り手振りを用います。人まねもきわめて得意になり、ジェスチャーによる言葉当て遊びをすると、子供が何の動作をしようとしているのかすぐに想像がつきます。また、友だちの運動音痴ぶりを、残酷なまでの芸術性でもって、滑稽にまねすることもできます。

このころの子どもはすばしっこいです。

 しかしながら、そんな子供でも、正確さのレベルC2あるいは特に行為のレベルDに属する作業をさせると、とたんに弱々しくなりあっという間に作業をつづけられなくなってしまいます。この年代の子供が休みなく動きまわることはご存じのとおりですが、ただ単に運動欲求が特に強いからそうなるわけではありません。子供は、座っているときにはあまり周りに注意を向けず、すぐに退屈してしまいます。子供に何か正確さを要求する課題(たとえば裁縫や書き取り)をさせると、チャンスがあればすぐに逃げ去り、線条体の羽を大きく広げて遊びまわります。M・グレヴィッチ教授かきわめて正確に指摘したことですが、子供が休みなく動きまわっているようにみえるのは、あくまで外見上にすぎません。子供の動作はみな自由で、負荷がなく、労働といえるようなことは何一つしていません。つまり子供は、抵抗を克服するような動作を行っていないので、特に大きなエネルギーを消費しているわけではありません。

7歳まで、小学校1,2年生まではレベルC2以上のことがまだ難しい、ということですね。

自由で負荷のない動作、抵抗を克服するような動作を行っていないので、大きなエネルギーを消費しているわけではない、というのが子どもの運動の本質のようです。

 この年頃にさしかかった子供の動作で錐体外路運動系が優勢になっていることは、動作が自然になめらかで優美になることからよく分かります。筋‐関節リンクのレベルに固有の動作が一般に上品で美しい理由は以前に述べました。この年齢の子供がもっている背景調整は、まさしくこのレベルにあたります。

 次なる運動発達の期間は、おおよそ7~10歳にわたります。この時期には、高次の空間レベルつまり錘体路のレベルC2が背景調整を蓄積しはじめます。子供の運動には次第に二つの新たなレパートリー、すなわち力と正確さが加わってきます。

 この発達は、子供が徐々に習慣としていくゲームと労働に反映されます。わずかここ数年のうちに科学として発達しはじめた運動科学の知識なしに、人々は昔からの生活の知恵によって非常に賢明かつ正確に、労働のスキルを教えるのに適した子供の年齢を把握していました。この年ごろはちょうど錐体路運動系が生産的になる時期です。もちろんこの年ごろの子供はまだ我慢強さも集中力も十分ではありませんが、絹かい精密な動作を発達させはじめ、テーブルに座っているあいだ他のことに惑わされなくなりはじめます。子供の書き取りは、クルミ大の文字を書くところからはじまりますが、そのうち学は徐々に小さく整っていき、学の大さもモスタッチョーリ[イタリアの太いパスタ」ほどではなくなり、鉛筆の芯を折るのも一日二回程度ですむようになります。少年は投げたり打ったりする動作が上達し(大喧嘩するようになるもの偶然ではありません。窓を割る回数や、喧嘩で鼻血を出す回数はこの時期が最も多い)、狙ったところに投げられるようになります。小学校低学年のころに高次の空間レベルC2に属するスキル、つまりいま述べたような正確さを要求される投打の動作や空間的に正確な動作などを学習しはじめるのは明らかです。この年頃に音楽演奏を教えはじめるのは、しごく理にかなっています。

音楽についてはあまり詳しくありませんが、絶対音感、などは、一般に7歳よりは前のようです。

 10~11歳をすぎると、成長を続ける有機体の全体に関わる大規模で複雑な再構造化の時期がはじまります。この時期は、約14、5歳ごろ、ちょうど思春期の直前から思春期が終わるまで続きます。この段階を待徴づけることは簡単ではありません。

 この時期、運動を構成するそれぞれのレベルは、一方で組織的にスキルや背景調整を蓄積しつづけています。行為のレベルは、人生の最初の10年間は私たちの分類でいう第一のグループの段階(すなわち、背景調整のない行為)に留まることを強いられていますが、その後ありとあらゆるスキルの基礎となる最初の高次の自動性をついに獲得しはじめます。この時期には、子供に手作業を教えることは可能であるし、積極的にそうすべきです。この年齢になると、子供にさまざまな行為への興味をもたせたり、ものを作ることへの欲求をかきたてることは簡単です。この時期に幸運にも子供の興味や才能を見つけることができたなら、大いなる進歩が期待できます。

 もう一方で、いったん現れたように見えた協応のレベル間の調和や協力関係は、再び多くの側面で崩れます。この崩壊は、各レベルの側に責任があるわけではありません。身体の中であらゆる内分泌腺の機能が大きく変化し、きわめて複雑な内部環境の化学的な状態が変化するために生じるのです。代謝を根本から再構造化し、あらゆる器官の分泌および排泄を切り換えることは、有機体にとってその他の身体機能を犠牲にしてもやり遂げるべき緊急の課題として受け取られます。このため、動作はのろまでぎこちなく、だらしなくなり、反応は遅くなり、一時的に巧みさが失われ、時には筋力までもが低下します。よく知られていることですが、この年ごろにさしかかったティーンエイジャーは私生活でも不意の変化を経験し、ときには実際に神経が参ってしまうこともあります。

 しかし、人生の階段を一歩上がれば、そんなことはすっかり忘れ去られてしまいます。一時的な運動の乱れはどれもみな脳運動系の障害とは無関係なので、ティーンエイジャーが外見上不器用になり労働やスポーツでの運動スキルのトレーニングが遅れても、誰もたいして気にかけないのです。逆に、たとえば外科医の指示などがあって、医者から直接運動を止められない限り、運動協応のレベルをまんべんなくみな教育し続けることは特に重要です。そのような系統的な努力が害を及ぼすことは決してなく、むしろ大人になりつつある子供の運動能力と一般的な感情生活に有益な影響をもたらしてくれます。

さて、先天性の難病患者は、運動協応のレベルの底上げが難しい、という側面があることは否めないと思います。

私もスポーツは好きですが、下手なものの方が多いですね。

痛みがあっても部活はできなくても、昼休みなんかはいろいろ遊んでいました。

私の場合、特に駄目なのが筋緊張のコントロールですね。

なかなか肩の力が抜けなかったり、背中が緊張で痛くなったりします。

スポーツ選手が大成するのは何歳ごろでしょうか?

早熟な人は14、5歳で金メダルを取って、ということもあります。

体操選手や水泳選手などですね。